ギタリストの柴田亮太郎さん、カンタオールの阿部真さん、バイオリニストの森川拓哉さんらが語る、フラメンコというコミュニケーション。共演者の心を知れば、フラメンコはもっと面白くなる! 他者から学び、そして自分らしさに開眼したとき、私たちはより自由に生きていけるはず。 Flamenco × Life 7 【最終回】 フラメンコというコミュニケーション 映画「VENGO ベンゴ」では、コンパスにのって靴音を響かせながら、その靴音でもって周りの人たちとコミュニケーションをとる、アンダルシア地方の「日常にあふれるフラメンコ」が描かれている。普段着のまま路上で踊るその姿は粋で、心弾む風景だ。そもそも、フラメンコの核といわれるコンパスとは何だろう。私がその飽くなき探究心を持って、萩原淳子さんのようにフラメンコと向き合い鍛錬すれば、クアドロ(額縁の意。ステージ上の椅子に出演者全員が腰かけ、一人ひとりソロを踊る形式)で踊るレベルまで到達できるのかもしれない。私の場合はその疑問を携えて取材をし、多くのアルティスタや練習生に話を聞くことで、少しずつフラメンコを理解してきた。けれど、いまだに私にとってつかみがたい「コンパス」。そして、このコンパスのうねりをとらえずしてフラメンコの世界には溶け込めない。恐らく、フラメンコを踊る上で上達する秘けつは三つあると思う。一、耳が良い二、音楽的センスがある三、舞踊における身体的能力が高いこの三つのうちのどれか一つで良いからずば抜けて優れたものがあれば、それほど苦労しなくても楽しく、自然にフラメンコを踊ることができると思う。あるいは、この三つの能力がバランスよく備わっていれば、である。萩原さんのクルシージョ「マルティネーテクラス」を受講して実感したのは、自ら一定のリズムを刻み続けることの難しさである。だが「一定のリズムを刻む」のは、毎日欠かさず練習することで習得できそうである。難しいのは、実際にはそのリズム(コンパス)は膨らんだり、縮んだりしながら回っていくということである。自分一人で一定のリズムを刻み続けるのも鍛錬がいるが、伴奏者や共演者と共に膨らんだり、縮んだりするリズムを共有するのはもっと修行がいる。そして、大切なのは、そのリズムを心地よく感じながら、となれば……。フラメンコには数十種類のリズムがあるといわれている。ソレアに代表される三拍子系と、ファルーカ、タンゴ等の二拍子系に大別されるというが、例えばシギリージャなどは「四分の三+八分の六」の複合形だ等といわれると、もう訳が分からなくなってしまう。フラメンコに限らず、その土地に伝わる民謡の多くはもともと記譜されて残っている訳ではなく、その独特のリズムや歌が口三味線のようにして弾き継がれ、歌い継がれてきたものを、後世に伝えるために書き記そうと譜面に残されたものだから、リズムが持つうねりやニュアンスを理解しようというのは、根気と時間が要る。だからこそ、フラメンコは一度手をつけると「一生の趣味」になってしまうのだ。コンパス、そしてフラメンコとは何かを理解するのに近道はないということを、プロの歌い手やギタリストが教えてくれる。ギタリストの柴田亮太郎さんは一九七五年生まれ。さまざまな公演の伴奏に引っ張りだこで、その独自のスタイルからきっと確たる自らの音楽的世界を持ち合わせているのだろうと推察していた。だが、取材でお会いした柴田さんが、フラメンコについて語る言葉はとても謙虚だった。「フラメンコって、いわゆる音楽じゃない。アンダルシアの文化であり、彼らのあり方そのものなんですよ」と話す柴田さんは、二十代後半の三、四年間をスペイン・ヘレスで過ごしている。そこで触れた土着のフラメンコに心底感動したという柴田さんは、だからこそ「理解したい」という強い衝動に駆られた。「最初は分からないことばかりだから、まず『分かること』をクリアにしていくしかないと思ったんです。具体的に理解できることってたくさんあるでしょう。 例えば、歌の歌詞を訳してみる。そこで初めてスペイン人との歌詞のとらえ方のギャップを知って、歌詞やリズムのとらえ方について彼らに質問する。そうやって、フラメンコについて何が分からないのか、決定的に違う部分までクリアにしていった」フラメンコという深く、果てしない広がりを持つ文化の前に圧倒されそうになるが「分かりたい、理解したい」という気持ちが、小さな石を積み上げてゆく。時には、所詮自分は日本人で、スペイン人が内包する、あのコンパス感はどうしたって身につくはずがない、と半ば諦めかけたりもする。そんなときに、フラメンコギターの世界ではプロとして活躍する柴田さんの言葉は、大きな励ましになる。「スペイン人のようにならなくていい。勉強して、少しずつ分かっていけばいいんです」カンタオールの阿部真さんは「カンテは、自分にとって歌というよりリズム、音楽ではない何か。だから、歌おうと思えた」という。多くを学び、努力してフラメンコに近付いた人たちでも、ずっとその世界を探し続けている。フラメンコを学ぶことは、外国語を習得するのによく似ている。文法を学ぶように、コンパスや歌についての決まりごとを覚え、語彙力を増やすように、パソや振付をひたすら繰り返し練習する。そして、パソや振付を完璧にマスターしても、本番という実践を積み重ねなければ、踊りこなすことは出来ないし、ましてや共演者たちと「音」を通じてのコミュニケーションをとることはできない。自分一人で踊ろうとするのではなく、周りにいる人たち、ギタリスト、歌い手と呼吸を合わせながら、相手のことをよく見ながら、自分の表現でもって問いかけるのである。私に、その「舞台上のコミュニケーション」を非常に分かりやすく垣間見せてくれたのが、バイオリニストの森川拓哉さんである。森川さんはジャズ、フラメンコからブラジル音楽、ラテン音楽など幅広い分野で作曲や演奏活動を行っている。フラメンコとバイオリンの組み合わせは、初めて聴いた時とても新鮮で、現代フラメンコの流行なのかと思ったが、森川さんによると「ジプシーの音楽は、インドでもアラブでも東欧でもバイオリンが入っています。スペインに伝わったものは歌が中心になりましたが」ということらしい。ふつうに決まったヌメロ(曲)を踊るだけでも大変なのに、即興で音を入れ、尚かつその音によってより「フラメンコらしく」磨き上げるなんて、森川さんのバイオリンは私にとって神業でしかない。それが可能なのは、彼自身が様々な民族音楽と共演し、即興理論を学び、表現の幅を広げてきたからであろう。 森川さんは四歳の頃から桐朋音大付属の音楽教室にてバイオリンとピアノ、作曲を習い始める。母親はピアノ教師、父親はサラリーマンだったが、バイオリンは自分から「習いたい」といったそうだ。中学三年時には作曲をメーンに手がけるも音楽の道には進まず、私立の進学校を経て早稲田大学社会学部に進学する。ジャズ・バイオリンは、大学に入ってから個人的に始め、オーケストラ部ではクラシックを奏でた。森川さんは、人の話を聞くのがうまい「聞き上手」だ。友人の、とりとめのない悩みをうんうんと聞きながら、一人のときは常にレポート用紙にペンを走らせて何かを書き留めている。作曲中のコード表、映画に出てきた美味しそうなメニューなどなど。「やりたいこと、やらなければいけないことが本当にたくさんあるので、自分の頭の中を整理しておかないと気持ち悪い」大学四年の時、大手新聞社の内定をもらいながらも「一番、自分にしかできないことをやろう」と音楽で生きていくことを選ぶ。「音楽をやってきたことで、他の人とは違う、自分に自信が持てた」と話す森川さんは、ただバイオリニストになるということよりもう一歩踏み込んで「自分のバイオリンだからこそできる可能性」を探し求めた。当時ジャズやフラメンコの世界でバイオリンをやっている人間が少なかったことや、作曲の勉強を続けていたこと、即興演奏が得意という自分の個性を生かそうと、大学卒業後アメリカ・バークリー音楽院への留学を決意する。森川さんはアメリカでジャズ理論や即興理論を徹底的に学んできた。そして、これまでに共演してきた民族音楽は実に三十カ国を超える。「ジャズはモダンでお洒落。東欧の音楽は土くささがある。ラテン音楽は陽気だし、そういった音楽の引き出しをいろいろ開けて、自分の表現の幅を広げてきた」例えば、新国立劇場バレエ研修所の発表会で小島章司さんが振付したスパニッシュ・ダンスでは「ファンダンゴの前にクラシックのこの曲を入れたい」といったリクエストに応じ、入交恒子さんの公演では(フラメンコの)タンゴの前に、アルゼンチン・タンゴの曲を作って入れたりするのである。ある日、都内のタブラオに森川さんが出るというので観に行った。公演の場合はゆっくり作曲する時間的な余裕があるが、タブラオライブでは通常、本番直前のリハ一回きりでステージに上がる。初めて共演する人もいるから、オーソドックスな構成、曲種をやることが基本である。今まで様々な民族音楽と共演してきた森川さんだが、その中でも「フラメンコは特別」だという。民族音楽の中では一番好きで、かけている時間もエネルギーもダントツだという。アレグリアスのような華やかで明るい曲と、ソレアのような心にしみいる曲では音色(おんしょく)を変えるし、踊り手の雰囲気や音の好みに合わせて弦の音を出すよう心がける。本番が始まると、森川さんの耳はギターとカンテに集中し、視線は踊り手に注がれている。音楽を聴きながら、コンパスをふまえながら、そして「ここだ」というところでバイオリンの弓を震わせる。その、森川さんの研ぎ澄まされた集中力と、思わずはっと息を呑むような美しいバイオリンの旋律が周囲に溶け込み、浮き立つ瞬間が刹那感じられて、客席にいる私も手に汗握ってしまう。そして弓を構えていても、なかなか踊りに入れないときもある。集中したまま、場が流れる。フラメンコのステージに、バイオリンの定位置はない。少なくとも、まだ日本では。そして、森川さんの使命はバイオリンを美しく弾くことではなく、共演者の魅力を最大限に膨らますことなのだ。バイレも、カンテも、そしてギターも、艶やかな音色に触発され、いつもとは異なる風景を見、さらに奥深い表現で応えてくれる。音で問いかけ、相手の中から何かを引き出す。感じたほうも音で応える。カンタオールの阿部真さんにフラメンコの即興的な要素についてたずねたとき、阿部さんはこういった。「僕ら日本人は、言葉もコンパスもまだ自由自在に扱えないもの同士が(フラメンコを)やっているわけで、それ以外のもの、テクニックやリズム感をよほど磨いていかないと即興なんてできない。さらに、共演者の人柄をよく知ったうえでね」 せいぜい半年に一度の共演で、一回リハをやって本番をやるというのは、辛くいえば決め事をするだけのこと。「本当の即興って、相手のクセとか技術とか感性とかを知り尽くして、リハも何度もやって、それでも尚本番で予想外の展開になったときに何かを創り出していけることをいうんじゃないかな」叩き上げでカンテを身につけてきた、そして真正面からフラメンコと向き合ってきた阿部さんらしい見方だ。一方、都内の有名なスペイン・レストランで長い間ステージのブッキングに携わってこられた方は、こんなことをいった。「毎回仲良しメンバーで構成されているステージでは、同じ観客しか呼べない。だから、できるだけ個性も雰囲気も異なる踊り手を組ませて共演してもらう。そのほうが観客にとっては、エキサイティングなステージになる」即興に応えるのに、高い技術は必要だ。そして、地道な練習の積み重ねだけでは、その技術は身につかない。フィエスタ(祭り)のような、その場のノリや空気で場が進行する中で、全身全霊を集中させて答えを見つけ出す中で、フラメンコによるコミュニケーションが身についてくる。フラメンコを始めてわずか二年でタブラオにレギュラー出演するようになった踊り手の篠田三枝さんは、駆け出しの頃の失敗を振り返る。「踊りを通してバックのギタリストや歌い手と会話しなければいけないのに、それが通じなかったり会話にならなかったことがたくさんあります。本当に、数え切れないほど」でもね、と篠田さんは言葉をつないだ。「月七回も本番があったら、どうしたらいいたいことが相手に伝わるのか、学ぶんです。言葉ではなく、踊りでね。まずバックの会話を聞くことから勉強していこうと思いました」それまでは自分の踊りのこと、振付や足の運びのことばかり考えていた。妊娠中、バックでパルマ(手拍子)を叩いていた時期があり、その経験も伴奏者の気持ちを理解する上でとても大切だったと話す。リズムや振付で、相手(共演者)の問いかけに応える。そこに言葉(セリフ)は介在しないが、究極の意思疎通がある。そして、それを可能にするのが「私はこう踊りたい」「音楽をこう表現したい」あるいは「私はこう生きたい」というアルティスタの強い意志と、高い技術だと思う。 フラメンコな生き方 私がスペイン人舞踊家のベニート・ガルシアさんを初めて取材したのは二〇〇六年の春である。モダンな振付と、高速のサパテアードが奏でるまさに音楽としてのフラメンコは、一瞬のゆるみもなく観ているものの心に揺さぶりをかける。ベニートさんのステージには、彼独自の音楽観や美意識が凝縮されていて、いつ観ても新鮮な感動がある。スペイン・アンダルシア地方、コルドバ出身のベニートさんは十五歳でプロデビュー。小松原庸子スペイン舞踊団のスペインでのオーディションなどをきっかけに来日し、同舞踊団の海外公演にも数多く参加、スペインではマリア・パヘス舞踊団に所属していたこともある。一九九九年より日本に拠点をおき、現在は東京・赤羽に自身のスタジオを構え、数多くの生徒を教えている。ステージに一切の妥協を許さないベニートさんのレッスンは厳しいが、それでも受講希望者が後を絶たない人気スタジオである。日本語も堪能で、日本の文化や社会を理解しながら「アンダルシアの文化であるフラメンコを伝えたい」と十年以上、日本という異国で奮闘してきた方である。一一年三月に東日本大震災と原発事故が起こり、多くの外国人が日本を出国し、日本人でも関西や沖縄に移住すると半ば本気で口にする人が私の周辺でも相次いだ。そんな中、ベニートさんが変わらず赤羽で活動し続けていると聞き、彼の日本に対する正直な心境が聞きたくてスタジオに伺った。日本で結婚し、家族を持ったベニートさんは、なぜ日本に留まり続けるのかという私の質問に対し、明快に答えた。「私の家はここにあるし、家族もいる。私の帰るべき場所は、もはや日本だからね。短期間の仕事や滞在で来ている外国人が自国に戻るのは当然のこと。日本は、私に様々なことを与えてくれた。奥さんと同じ(笑)。良いときも、悪いときも付き合わなきゃいけない」原発事故に関しては、インターネットを通じて自分が信頼できる情報を入手し、日本の原発の仕組み、チェルノブイリ事故との違いなどについても勉強し、過熱報道するスペインメディアに抗議のメールを送ったりもしたそうである。日本とともにあろうとするベニートさんの姿勢は揺るがないものだった。私は、日本で成功したらいつかはスペインに帰るのだろうかと漠然と考えていたので、ベニートさんの「私の帰るべき場所は、もはや日本」という言葉は意外だった。それは、フラメンコを教えるためにベニートさん自身も日本の文化を理解し、日本社会とつながる努力を惜しまなかった結果なのだろう。〇六年の取材のとき、ベニートさんは「スペインの心をそのまま日本語で伝えたいと思っている。それが、私の毎日の戦い。生徒さんに伝えたいこといっぱいあるのに、まっすぐには伝わらない」と心情を吐露した。ベニートさんはその後、そうした文化の違いや自分のスタンスをどう貫くかという問題に正面から取り組み、一つの到達点を見出したのが震災後の七月に行われたテアトロ公演「証 AKASHI」に見事に結実していた。和と西の出会いをテーマの一つに据えた創作フラメンコだったが、十数年かけて日本と向き合ってきたベニートさんが、やっと「日本の心」を受け取ったという象徴的なシーンがあり、それはとても印象的で感動的だった。「私は踊りを続けるためにどうするか、ということを軸に(人生を)決断してきた。フラメンコがきっかけで日本に来て、いろいろな人と知り合い助けてもらい、ここでフラメンコを教えたいと思って今に至っている。父に、やると決めたら最後まで一つのことをやれ、といわれていたしね。問題が起きても後ろに戻るのではなく、問題を乗り越えて前に進め、と」かつて経験したことのないような大震災の被害に、多くの人が悲しみに沈み、そして自分の使命や成すべきことと対峙したと思う。ベニートさんは「証 AKASHI」公演について当時こんなふうにいっている。「人生の曲がり角の瞬間を一つずつのシーンで創っている。自分の『証』なんだけれど、観ている人にとっても人生の『証』が感じられるような。今だからこそやらなければと強く思っています。これができるのは、生きているおかげ。悲しいから、あれもしない、これもしない、ゼロ。でも、そうやって何もしないことで、一カ月後、彼らの手助けになりますか? そして、誰かを助けるためには、自分の中に精神的な余力、溢れるものがないとダメ。頑張れるための何か。悲しみだけに目を向けていたら、絶対に力は湧いてこない。何に触れたら自分の心は動くだろうか」そして、こう続けた。「被災地の復興には長い時間がかかる。だからこそ、彼らの力になりたいのなら、まず、自分の人生をしっかり、変わらず生きていくことが大切」「何百人というプロの踊り手がいるよね、フラメンコの世界で。一人ずつ、違う。雰囲気、足の打ち方、手の動き、すべて違う。リズム感が全く無くても、雰囲気がほかの踊り手の三百倍あるとか。いろんな動き、表現の仕方がある。選ぶのはあなた自身。自分に自信を持って。自信がある人はどんなふうにやってもフラメンコに見えるんだよ」スペインと日本。同じように、その二つの国を経験しながらフラメンコと向き合ってきたAMI(鎌田厚子)さんは、二十代の頃、スペイン留学中にこんな体験をした。「スペインで舞台の仕事をもらったの。でも、私が採用された代わりに、それまでそこで踊っていた十代の踊り手がはじかれた。その子は私の目をまっすぐに見て『私は家族を養っていかなくちゃいけない。その仕事を代わって』っていったの。私はとてもそこでノーとはいえなかった。もちろん、その仕事は降りたわ」趣味で始めたフラメンコが、この国の人たちのわずかな仕事を奪う可能性もあるのだと気がついた瞬間だった。AMIさんは結局十五年間スペインに滞在し、プロの踊り手としての技術や姿勢を磨き上げた。〇四年からはドラマーの堀越彰さんらと銀座博品館劇場で共演し、フラメンコとジャズをクラシックやラテンなどにアレンジする新しい舞台にも挑戦している。「異分野の人たちとの共演はとても刺激的。フラメンコって、その時自分が持っているネタで勝負しなくてはいけない。でも、新しいジャンルの人達と仕事をするとゼロから何かを作り上げていかなければいけないので、非常に難しいけれど、今まで築いてきたフラメンコのベースを元に、自分だけの自由な発想ができるのでとても面白い。それに、スペインをお手本にしなくてはいけない世界からも自由になれる」AMIさんにプロとアマチュアの境を聞いた。「たとえ技術は六〇%でも、プロとしての意識を持ってステージに立つことで最高の踊り手になっていく。技術的に完璧であることだけが、プロの条件ではないのよ。自分が出せる最高のもので勝負しているかどうか。人前にさらされて、磨かれていくということが大切なの」 一一年の春、次男がようやく三歳になり入園した幼稚園で母親同士の懇親会があった。地域の公民館を借りてのそのささやかな会の出席率は実に九割近かった。興味深かったのは「お子さんのことだけでなく、自分自身が今興味を持っているもの、趣味などがありましたらお話しください」と司会役のお母さんが気を利かせて話を振ると、半数以上の人がアロマやヨガ、ジャズダンスなど何らかの「趣味」について積極的に語り始めた。中には、パートタイムの仕事をしながら資格取得の勉強をしていると生き生きと話す人もいた。おむつのとれない赤ちゃんをあやしながら参加したお母さんは「私はまだ下の子に手がかかって、何の趣味もなくて……」と申し訳なさそうに挨拶した。学生時代、社交ダンスをやっていたけれど今はなかなか踊る機会がありませんと話す方がいた。私も「フラメンコが好きで、よく観に行きます」と話すと、知り合ってすでに四年の付き合いになるママ友から「下の子どもの手が離れたら、フラメンコをやりたいとずーっと思っているのよ」と思わず打ち明けられ、フラメンコの根強い人気を感じたりもした。少子化といわれる世の中だが、私の周辺、東京の北多摩地域では意外にも「一人っ子」家庭は多くない。ほとんどの人が二人、三人の子どもを抱え子育てに日々奮闘している。そして息子が通う幼稚園では、時間外の預かり保育を行ってくれることもあり、働いているお母さんもたくさんいる。かつては仕事に生きがい、やりがいを見出せたが、子どもが生まれ、現実には国が旗を振るように「仕事と子育ての両立」は理想どおりにはいかないことを痛感する。子育てをしながら仕事を続けることはできても、そこからこぼれ落ちる何かがある。大塚友美さんは「フラメンコは、自分がきちんと生きているということの証し」だといった。人生の中で出産や育児、介護、病気などがあっても、きちんと生きてさえいれば、フラメンコはついてくる。フラメンコ舞踊家の箆津弘順さんは自身のスタジオ発表会の挨拶文で、フラメンコ三昧の日々を送る練習生たちについて「あんた、いったいいくつなの…?」「こんなことばっかりやってて…他に大事なことがあるでしょうに!」と家族から苦言を呈されているであろう乙女たちをユーモアあふれる文章で擁護しながら、こう綴っている。「私は人生その人に必要な事が必要な時に必ず舞い降りてくるのだと信じています。そしてその人生、今この時の積み重ねに他なりません」と。箆津さんは二十七歳の時に「習い事がてら」軽い気持ちで始めたフラメンコに心を奪われ、勤めていた英国系証券会社を辞め、踊りの世界に飛び込んだ人である。フラメンコに接していて思う。自分に欠けているもの、足りないものと向き合いながら、前を見て歩いていける人は輝きだす。新人公演を終えた後、鶴幸子さんはいった。「フラメンコの場合、欠点ってその人の個性だったりする。だから人に注意されたとき、本当に直すことがいいのか、そのままでいくのか、自分で選ばないといけない。でも、他人から見たらやっぱり『欠点』だといわれ続ける。それをブレないでやり続け、鑑賞に堪えるものに昇華できるかだと思う。欠点を全て直し続けたら、つまらない踊りになるんじゃないかな」アンダルシアの乾いた土地に花開いた、フラメンコ。美しい四季があり、森と山を切り拓いて生き、海に囲まれた湿潤の国、日本。歌の響きが異なれば、それを聴いて舞う踊りもまた違ってくるはず。フラメンコと出会った私たちが、他者から学び、そして自分らしさに開眼したとき、もっと自由に生きていけるのだろう。(おわり)
小林弘子さん、入交恒子さん、大塚友美さんが出逢ってきた、スペイン・フラメンコの風景。偉大なアルティスタ、マエストロとの交流を通して見えてくる、異文化を踊ることの葛藤、尽きない魅力。1980年代~90年代、フラメンコのアルテは、スペインの土地に行ってこそ触れられるものだった。 Flamenco × Life 6 異文化を踊る 二〇〇九年春、フリーペーパー「ファルーカ」で、プロの踊り手に私的なエピソードを交えながら交流のあったスペイン人アルティスタについて語ってもらうという座談会企画が持ち上がった。有名なスペイン人アルティスタは数多くいるけれど、どうしたらフラメンコ初心者である読者に古今のアルティスタを印象深く読んでもらえるだろうかと考え、思い付いたのだった。そしてそれは、深く、広大なフラメンコの風景を、個人の記憶によってある一時代、ワンシーンを切り取る作業でもあった。ポイントは人選である。座談会なので、ゲスト同士が全く見ず知らずでは会話が弾むまでに時間がかかってしまう。ある程度顔見知りか、共演の経験があるか、あるいは渡西の時期が重なっている、同じマエストロに師事したことがあるなどの共通点があるほうが良い。まず、結婚、出産を挟みスペインで十五年間暮らし、一九九九年に帰国して現在は台東区にスタジオを構えて教授活動を行っている小林弘子さんに連絡をとった。座談会の趣旨を伝えると、小林さんは快諾してくださった。 座談会でお話しするまで、私は小林さんに直接取材したことはなかったのだが、小林さんに師事しグループレッスンなどで教えるまでになられた方に別の取材を通して知り合い「育児のブランクを乗り越えてフラメンコに復帰された、心の広い方」と聞いていた。そして、いろいろな方から評判を耳にしていた大塚友美さん。現在は、都内ではなく出身地の浜松に拠点を移して活動している生き方も興味深かった。同じく面識はなかったものの、やはりアフィシオナード(愛好家)の方から絶賛されていた入交恒子さんにもお会いしたいと思い、直接連絡をとると、お忙しい方ながら「喜んで」とお返事くださった。結局のところ、小林さんが大塚さんのパートナーであるギタリストの鈴木尚(たかし)さんに何度か伴奏してもらった縁があることや、セビージャの稽古場で小林さんと入交さんが顔見知りだったこと、入交さんと大塚さんは共演の経験があることが分かった。座談会は、五月に中野のスペインバル・モンキーパッドで行われた。三人とも、一九八〇年代から九〇年代にかけてスペインと日本を行き来し、現在ベテランとして活躍されている方たちである。八〇年代後半から九〇年代前半といえば、日本がバブル景気に沸き、過剰な不動産投資が繰り返された時期でもあった。一方でインターネットは現在のように普及しておらず、グーグルもユーチューブもない時代。フラメンコのビデオやDVDも、今ほど豊富に販売されていない。フラメンコのアルテは、スペインの土地に行ってこそ触れられるものだった。当日はお昼から横浜にある箆津弘順さんのスタジオを取材する予定もあり、JR中野駅に降り立ったのは座談会開始時刻ギリギリだった。箆津さんは碇山奈奈さんにフラメンコを師事し、その後渡西してスペイン人アルティスタに学んだほか、バレエも修め、小松原庸子スペイン舞踊団公演や岡田昌巳フラメンコ公演、マリア・パヘス日本公演など数々の劇場公演に客演してきた実力の持ち主である。箆津さんの理論的で充実したレッスンを取材し、脳内エネルギーをかなり消費した後、小一時間電車に揺られ、中野のモンキーパッドにたどり着く。一対一の取材ならともかく、私より人生経験も豊富で、名実ともにプロとして長らく活躍されている踊り手の方たちを前に、きちんと司会の役をこなせるだろうか。録音の不具合は発生しないだろうか等、とても緊張してきた。けれど心配は杞憂だった。座談会が始まると、というより正確には小林さん、大塚さん、入交さんがお店にいらっしゃった途端、三人はすぐに打ち解けてくださった。「私、昔、小林さんにファルダを譲っていただいたことがあるんです」「そうだったわね。セビージャを思い出すとあちこちの街角で恒子さんの記憶が蘇るのよ」小林弘子さんは一九五七年生まれ。東京・台東区で育つ。共立女子短期大学を卒業後、丸善石油に入社。二十歳でフラメンコを始め、二十四歳の時に初渡西しマドリッドのアモール・デ・ディオスでレッスンを受けている。夏には、アンダルシア各地のフェスティバルを見てまわるなど「ここでしか見られない」熱いフラメンコを体感した。八六年、二十九歳の時スペインで暮らし始め、翌年スペイン人カンタオールのファン・ホセさんと結婚する。夫は十七歳年上だった。「優しそうな方でしたよね」と入交さんがいう。「私はスペインで十五年間暮らしたけれど、長男のアントニオを妊娠してから六年間はまったく踊っていないのよ。家の目の前に、ファン・ホセが所属するスペイン国立バレエ団の稽古場を見ながら。育児に追われて、その上子どもは二人とも喘息で、全然レッスンの時間はとれなかった。主人も子ども第一の人だったから」意外だった。結婚前に「スペインで一緒にフラメンコをやろう」という夫との約束は、どこかに消えていった。小林さんが胸のうちに抱えていた葛藤は、想像するに難くない。それでも、踊ることへの想いは絶ちがたかった。「娘のカルメンが幼稚園に行きだしてから、私はカルメラ・グレコに習い始めたの。毎朝五時半に起きてお弁当作って、子ども二人を日本人学校に送って、帰ってきてメルカド(市場)に行って掃除、洗濯、食事の支度をしてスタジオに駆け込むという毎日。午後一時にスタジオに着く頃には疲れはピークだったけれど、レッスンは本当に楽しかった。レッスンが終わって、子どもを学校に迎えに行って、その後宿題をさせて。もう夜の九時になると疲れて倒れそうだった。二年間、毎日レッスンに通ったんだけれど、もう来週からは(貯金が尽きて)月謝が払えない、でもカルメラの踊りはすごく好きだから見学させて、と言おうと思ったその日にカルメラが声をかけてくれたの。『お金、どう?大丈夫?』って。事情を話したら『何言っているの、毎日レッスンに来なさい』って。その後も二年間、彼女は無償で教えてくれました」夫ファン・ホセはジプシーの血を引くフラメンコ・ファミリー。フラメンコはお金を稼ぐためのものであって、お金を払って習うものじゃないという考え方だった。「ファン・ホセと、カルメラの妹のローラ・グレコは同じバレエ団だったから、彼の収入がどのくらいで、どんな性格で、私がどんな生活しているのか、みんな知っていたのね。私は、本当にカルメラには感謝していて、人間って順風満帆になるとそういう気持ちを忘れてしまうから、日本に帰国した時、私のスタジオに彼女の名前をつけたんです」スペインでは、フラメンコは生活の中に根付いているものであり、だからこそ、日本よりずっとシビアに、それは生活の手段としてもとらえられている。そういう温度差について、入交さんはこう話してくれた。「そうした文化の違いはありますよ。それで、私たち日本人がそういうカルチャーを知らないだけで(若い頃は)勝手に傷ついたりしてね。どっちが悪い、とかじゃなくてね。スペイン人と付き合うとカルチャーショックの連続で、だんだんね、あ、そういうことなんだって、わかるようになってくる。その繰り返しですよね。異なる文化を理解するって」 入交恒子さんは一九六一年生まれ。高知県の出身で、幼少の頃よりモダンバレエを学んできた。「はじめからフラメンコがやりたかったの、十一の時から」明治学院大学に入学と同時に上京し、八〇年より小島章司さんに師事。小島さんのもとで代教を務めながら舞台活動に参加し、八六年、二十五歳の時にスペイン政府による奨学生として一年間渡西する機会を得る。翌八七年帰国し、コンクルソ・デ・アルテ・フラメンコ・東京に出場し奨励賞を受賞。小松原庸子スペイン舞踊団に入団し、九二年に独立するまでスペインでの小松原舞踊団公演に多数参加している。「私は、小島章司先生のお力添えを頂いて、スペイン政府の奨学生として初めて渡西した時、アモール・デ・ディオスに着いていろんなクラスを見たんですけれど、その時カルメン・コルテスの弟さんがギタリストでいて、知り合ったんです。マリオ・マヤが来日したとき、カルメン・コルテスも一緒に来ていて、すごい人だって評判は聞いていたんです。きれいだけど、とっても野生的で」「当時、いなかったですよね、ああいう雰囲気の人」と小林さんがいう。「そう、その野生的な雰囲気に惹かれて、そういう匂いがしたのは彼女だけだったの。週五日クラスレッスンを受けて、個人レッスンもとって。日曜日は闘牛に連れて行ってもらったり、スペイン人の習慣とか、考え方とか、一緒に過ごす中で教えてもらった気がしますねぇ。レッスンの中で技術を教わるだけではなくて、ブレリアを学ぶならヘレスに行かなきゃ、とか、後に出会うんですけれど、マヌエラ・カラスコのこういうところを見ておきなさい、とかね」踊りの技術だけではなく、フラメンコの見方なども教えてくれるカルメン・コルテスは特異な存在だった。「とても開かれていた人でした。彼女のアドバイスが心に残って、それをやり遂げるのに十数年かかりましたけれど。ヘレスでも素晴らしい先生に出会えたし、そこに行かなければ感じられないものがあって、そこに導いてくれたのがカルメン・コルテスなんです。十年後(九六年)にまた、彼女のクルシージョに参加するんですが、その時は昼間はレッスン、夜はフィエスタで生徒に必ずブレリアを踊らせる。ギタリストや歌い手を呼んできて。そのクルシージョには五、六年間、毎年通いました。数多くのアルティスタの中に身を置くという貴重な体験をさせてもらいました。でもねぇ、厳しかったですよ、個人レッスンでは。音の聞き方で、この『一』というところでどの辺に音が入るかって(笑)。コントラ・ティエンポ(ア・ティエンポ【表】に対して反対【裏】に打つリズム)で入れてるつもりが『ちょっとこっち寄ってる!』って、ものすごく厳しくて。最初は、いわれていることが分からないですよ。え?ちゃんとやってるじゃない、って(笑)」大塚友美さんは一九六三年生まれ。十代後半からロックバンドを組み、音楽の世界からフラメンコに入っていった。「当時はキーボードを弾いていて、無国籍音楽が流行っていたこともあって、曲作りの素材を探していたんです。でも、フラメンコに出会って、あ、これは身体(踊り)から入ろう。そこから出てきたものが、自分にとっては本物だって思って」 チアダンスやインド舞踊、ジャズダンスの経験もあったので、踊りに対する素養はあった。二十歳でアルテフラメンコの沙羅一栄さんに師事し、三年ほど習う。一九八八年には単身セビージャに渡り、一年間スペインに滞在している。「渡西して最初はコンチャに、その後ファルーコに習って、やはり彼との出会いは大きかったですねぇ。とても優しくて、あたたかい人だったんですよ。レッスン自体は結構放任主義。足ひとつ教えたら、後はできるまで放っておかれる、って感じで。彼はずっと横に座ってリズムをとっている。できるところまでやってみな、という感じで。それで、アドバイスしてくれる言葉が『柳のようにしなるんだ』とか『鳥が大きく羽を広げるようにするんだ』とか。自然への尊敬の気持ちがあって、私はとても共感したんです。彼の存在そのものが百獣の王みたいな感じで、皆からとても尊敬されていました。ヒターノの中では、ファルーコがいる、ということをものすごく誇りにしているのが切々と伝わってきて。彼は、誰にも真似できないようなウニコ(唯一つの)な芸を持っていたんですが、その芸は周りにいる家族やヒターノ、みんなのものだったのね。彼が自分のアルテだけに固執したら、ああいう踊りにはならなかったんじゃないかな。彼は恐らく、稽古場の鏡に一人向かって練習する時間よりも、家族や自分をとりまく社会の中に身をおく時間のほうが多かったんだと思う」そう語ってくれた大塚さん自身、九五年にギタリストの鈴木さんと結婚し、二〇〇〇年妊娠と同時に故郷の静岡・浜松へと活動拠点を移している。田舎で子どもを育てたい、食を含めて「生活する」ということをもっと大切にしたいと思ったからだ。この時すでに日本フラメンコ協会第一回新人公演(九一年)で奨励賞を受賞し、都内のタブラオや劇場公演に数多く出演して踊り手としての実績も積み上げていた。ならば尚のこと、東京を離れることに後ろ髪引かれる思いは生じなかったのだろうか。「フラメンコは、自分がきちんと生きているということの証し。きちんと生きてさえいれば、フラメンコはついてくる」そしてその言葉通り、大塚さんは浜松という土地や文化を愛しながらフラメンコと共に生き、その姿勢や活動が評価されて〇八年度、「浜松ゆかりの芸術家」に選ばれている。「スペインでも今、芸がどんどん個室化しているような気がします。稽古場で、鏡の中の自分とまんじりともせず向き合うというのは、芸人だったら通らなければならない道かもしれないけれど。それは、自分の精神世界を広げることにはなっても、フラメンコの世界は広がらない気がするの。だから、スペイン人の踊りでも、その人個人の世界しか見えてこなかったりすると、あ、そうじゃないものが見たいって思う」と大塚さんはいう。小林さんもファルーコの存在感を覚えていた。「ファルーコの生命空間が広い、というのかな。ある物理的な場所にはとどまらない存在感がありましたよね。そして、彼のヒターノとしての使命感。彼が頑張ることで、ヒターノの社会が何かを訴えていく力を得る、というような。彼はもちろん、意識してはいないけれど」そうした、日本とは異なる世界との接触は、それぞれに大きな投げかけを残した。「私は、そういうヒターノの世界の踊り手にすごく憧れもして、でも、知れば知るほど遠のいてしまうということもあって、自問自答です」と入交さんはいう。初めてスペインで一年修業して帰った時、一生懸命踊りのノウハウを身につけて帰ったつもりが、東京でスペイン人と一緒に仕事を始めるとまた全然違う世界が見えてきて、実践の必要性を思い知らされたと入交さんは振り返る。「その結果、彼らアルティスタ達との交流もふえて、だから余計、そういうふうにギャップを感じるときがあるのかもしれないですね。人によっては『彼女は私達と同じような感じ方をする』といわれることもあって、だいぶ慣れてきたかなぁとは思いますけれど」入交さんは九二年に独立し、自身の舞踊クラスを開講するようになってからほぼ隔年のペースで劇場公演を行っている。二〇〇六年、〇七年と続けて、草月ホールで行ったコンシエルト・フラメンコ公演では、二年連続して文化庁芸術祭参加公演に選ばれ優秀賞を受賞している。そうした劇場公演の際、パートナーでもあるギタリストの高橋紀博さんとの共演はもちろんだが、他のメインの共演者がスペイン人アルティスタで占められているのも、入交さんの舞台の見どころである。ひとまわり年上の高橋さんと結婚した入交さんは、仕事の上でも重要な伴侶である高橋さんについてこう話してくれた。「毎回公演で、一緒に試行錯誤しながら創りあげていくんですけれど、音楽的な見地から非常に得がたい存在です。それから、私は地方の仕事に行くことも多いので、そういう時よく分かってくれている人がいるというのはありがたいです。でも、フラメンコのとらえ方について違う部分もあるので、話していく中でその差異を感じることもあるし、最終的には似ていると思うんですけれど、お互いあまり地雷を踏まないようにしているんですよ」と笑った。そして、二人の間にフラメンコがあるからこそ、強い結びつきが得られたとも語ってくれた。「入交さんも大塚さんも、ご主人が日本人のギタリストで、一生懸命フラメンコをやっている人と一緒になったのは、とてもいいと思うわ」と真顔でいった小林さんは、九九年日本帰国の前にファン・ホセさんと離婚している。「スペインでラファエラ・カラスコに習ったときに、そのコンパスのとり方を家で復習していたら、ファン・ホセに『家でフラメンコするな!』っていわれたわ。彼はやっぱりどこかで『外国人にはできない』って思っていた。自分たちの文化だから」そういう小林さんも、自分がスタジオで教える立場になり、レッスンが終わって家に帰ってきた時、息子のアントニオ君(座談会当時二十歳)がリビングで練習していると「家でフラメンコやめて」といってしまうこともあるのだと笑う。今では、都内タブラオで親子共演して踊ることもある。大塚さんは「年一回の公演の時を除いて、お互い単独行動」だという。けれどフラメンコ・メンバーを増やすべく、やはり九歳(当時)になる一人息子に少しずつフラメンコを教え始めていると、とても嬉しそうに話してくれた。大塚さんは「今、渡西する機会は増えていますけれど、鏡の前で練習したのをそのまま人前に持ってきちゃう。お客さんがいるようで、実はスタジオの延長上になっているのを感じるときがあります。私たちは鏡を見るところから始まっている、フラメンコを習うということが。でも、スペイン人がいつ鏡を見たかって考えると、それまでに過ごしてきたフラメンコ的な時間があまりに豊かで、長い。ファミリアに囲まれて、人を見ながら踊るということが当たり前で、そこで培われてきたものってすごく大きいと思うの」という。舞台は、最終的にその人の生き方が出る。そういうものだと入交さんはいう。「それに気が付くのがいつかなって。クラシックバレエはやはり完成度が求められるでしょう。でも、フラメンコはその人の個性とかね、『違うからいいのよ』というのがあって。今は、これはできて当たり前という、ちょっと技術で競うようなところがありますね」そして、入交さんは最後に「不器用ながらも時間をかけてフラメンコを習得していることが、結構気に入っている」といった。「私たちがフラメンコを始めたときは情報も少なくて、いろんなことを知るのにこう、探っていって、少しずつ、少しずつ時間をかけて分かることがあって。今もその途中ですけれど」大塚さんも、そんなに急くことはないと話す。「今って、欲しいものがあるとすぐつながるじゃない? だから、ちょっとでも時間がかかったり、遠回りすると不安になっちゃうのかなぁ。フラメンコも煮込み料理のように、じっくり愛情こめて煮込んであげれば、ご本人の人柄やら、人生やらが溶け出して美味しくなると思うんです。若い方たちが、早く上手にならなきゃいけないって、とても急いでいるように見えて、苦しそうに見えます」スペインと日本で、波乱の人生を送ってきた小林さんは迷いなくこう言葉を継いだ。「人と較べない。自分のやっていることを信じて、コツコツ登っていく。不器用で、遠回りをしたからこそ、その振りに他の人では出せない重みや深みが加わるはず」と。座談会が終わった後、フラメンコの知識も未熟でつたない進行だったにもかかわらず、皆さんは「とても楽しい時間だったわ。こういう機会を設けてくださって、ありがとう」といってくださった。それぞれが目指すフラメンコを、それぞれの環境の中で今でも真摯に追い求めている三人が、軽やかな足どりで中野の雑踏に消えていく後ろ姿は美しく、そして羨ましかった。 フラメンコの招聘公演を意欲的に手がけている株式会社イベリアの蒲谷照雄社長は「僕がフラメンコギターを始めた一九六〇年代に較べたら、今はネットからも様々な音楽が配信されていて、昔よりずっとフラメンコ音楽に接する機会があるはずなんだから、もっとフラメンコ人口が増えていても良いのにねぇ」といった。スペイン国立バレエ団をはじめヨーロッパの名門オーケストラを招聘していたコンサート・エージェンシー・ムジカが倒産したのは二〇〇七年六月のことである。負債総額は十二億円ともいわれており、九〇年代後半から著名なスペイン人アルティスタの来日公演を数多く手がけていただけに、このニュースは少なからず私にショックを与えた。〇八年のリーマンショック以降、日本全体を何となく不景気な雲が覆い、一一年に入ると都内のタブラオ二店が閉店した。本格的に景気が回復せず、客足が遠のいてきたところに三月十一日、未曾有の大震災が東日本を襲った。東北の被災地は甚大な被害を受け、そして東京でも、福島第一原子力発電所が引き起こした事故の影響によって外資系企業が社員を一時引き揚げたり、事業所を関西に移すなどしていたから、その余波もあったのだろう。クラシック音楽やバレエの集客力に較べれば、フラメンコはまだまだ少数派である。景気の波の中で小さなブームが生まれてはフラメンコを後押しし、その波が引けば観客もぐっと減る。変わらないのは、そのアルテに近付こうと向き合う人々の一途さである。 (7につづく)
踊り手からアルティスタへ――里有光子 気持ちを共有して踊りたい――屋良有子 上達することに貪欲であれ――篠田三枝 働きながら踊り続けてきた人、私費でのスペイン滞在の後公費留学を成し遂げた人、出産・育児を経て花開いた人。30代の実力派バイラオーラ(踊り手)が選んできたそれぞれの人生。 Flamenco × Life 5 踊り手からアルティスタへ ――里有光子 「私、こうやって踊って生きていくんだなぁ」 里有光子さんが漠然と将来を見定めたのは、CAFフラメンコ・コンクールで奨励賞を受賞しスペインに留学中の、三十歳を迎える頃だった。それは「これから踊って生きていく」という決意のようなものではなく、自分のコンプレックスや弱味を受け入れて尚「そんな私でも踊っていける」という、強さに裏打ちされた安堵感だった。スペイン舞踊振興マルワ財団が主催するCAFフラメンコ・コンクールは、日本における若手舞踊家の登竜門ともいえ、二年に一度開催される。優勝者には賞金百五十万円(含スペイン研修費)とスペイン往復航空券、準優勝者には賞金百万円(同)とスペイン往復航空券が与えられる。そして、三十歳以下の成績優秀者には「奨励賞」が設けられており、スペイン・セビージャにあるクリスティーナ・ヘエレン財団フラメンコ芸術学校授業料と滞在費補助(六十万円)、スペイン往復航空券が与えられるのである。里さんは二〇〇九年第五回CAFフラメンコ・コンクールにて見事奨励賞を受賞し、同年九月~翌年六月まで渡西している。一九七九年生まれの彼女は、信州大学ダンス部でフラメンコと出会う。六歳から高校卒業までモダン・バレエをやっていたので踊りに対する造詣もあり、身体も良く動いた。学生時代から滝沢恵さんに師事し、〇四年十一月からモダンな振付で知られる森田志保さんのスタジオに通う。〇六年夏には日本フラメンコ協会新人公演にて奨励賞を受賞している。バレエを始めたときから「踊ること」は、里さんにとってライフワークとなった。「プロかアマチュアかを問わず『踊りのない人生』をむしろ想像できない。もともと踊りは遊びの延長なんです」と彼女はいう。大学卒業後は千葉の実家に戻り、派遣社員としてテレフォンオペレーターや営業事務の仕事、ウェイトレスのアルバイトなどをしながらフラメンコを続けてきた。新人公演で奨励賞を受賞した後は、森田さんが主宰するスタジオ・トルニージョで講師を務めるまでになり、その後CAFフラメンコ・コンクールでの入賞を経て長期留学を果たした後も、一二年春までフラメンコ以外のアルバイトを続けてきた。「クラスで教えてタブラオに出演しても、踊りだけではまだ生活していけないから。でも、私、ふつうに働くことも好きです。フラメンコの世界しか知らないのは、勿体ない」派遣やアルバイトの仕事で嫌な思いをしたことは一度もない。自分から「もう辞めたい」と思ったことも、一度もないという。「フラメンコって、踊りにすべて出る。その人の生き方、ものの見方、人間の在り方が。だから面白いし、誰でも踊れるんです。長年踊ってきたバレエは『出来ないこと』の方が目をひく。スタイルの良し悪しや柔軟性、ジャンプの高さ、優雅さ。でもフラメンコはそうじゃなかった。出来なかったら違う選択肢がある。それは大きな発見でした」大学時代、経済学部システム法学科に在籍していた里さんは、進学当初、法律を学んで司法試験を受けるか、行政書士を目指そうかと思っていた。けれど、自分が考えていた以上に法律の世界は広がらなかった。第二の踊りとして選んだフラメンコのほうが遥かに面白く、奥深かった。大学三年になった二〇〇〇年からは、同級生と同じように就職活動を始めた。民間企業を中心に旅行会社など「人と接する仕事」に応募した。しかし、地方の国立大学の女子大生になかなか朗報はやってこない。この年(二〇〇〇年)は、西鉄高速バス乗っ取り事件など少年犯罪が続発、また雪印の食中毒事件が世間を騒がせた。そして大手百貨店そごうが七月、グループ全体で二兆円を超える負債を抱えて倒産したのもこの年である。秋には、バブル期の過剰な不動産投融資で失敗した千代田生命や協栄生命などの倒産が相次いでいる。「総合職でも一般職でも、とにかくたくさん応募しました。あの頃はベンチャー創成期でしたけれど、IT企業には興味が持てませんでした」四年の夏も終わり、九月に入るとアメリカの同時多発テロのニュースが報じられた。結局在学中に就職は決まらなかった。里さんが学生時代を含め六年間師事した滝沢恵さんは、マドリッドのアモール・デ・ディオスで伝統的なフラメンコを習得してきた方だった。滝沢さんは折にふれて里さんに「プロになりなさい」と強くフラメンコへの道を勧めてくれた。大学フラメンコの公演や祭典などを通じて、多摩美出身の島崎リノさんや今枝友加さんが都内のタブラオなどで活躍しているのも見聞きし「ああいう生き方もあるんだなぁ」と思い始めた。卒業して千葉の実家に戻り、派遣やアルバイトで働きながらフラメンコを続けていったのも、彼女ら先輩たちの影響が少なからずあった。ちょうど六本木にある「麗の店」で毎週フラメンコを踊ることになり、クラスレッスンもあって「残業のない仕事」にこだわって働いた。「残業できないというのは、私にとって頑固なまでに譲れない条件でした。プロの踊り手になろうと思っていた訳ではありませんが、一方で正社員の仕事に就こうとも思わなかった。フラメンコは私のライフワークなので、永遠のもの。仕事は、あくまで生活を支えるためのもの。フラメンコと同じ重さで、仕事に責任ややりがいを求めたら心が辛くなってしまう」社会人になってから二カ月、四カ月といったスパンで渡西できたのも、流動的な働き方のおかげだ。ハキハキと質問に答え、常に周りをよく観察し行動する彼女は頭が良い。企業にいても着実にキャリアを重ねられたはず、と思う。 彼女が第五回CAFフラメンコ・コンクールで奨励賞を受賞する二年前、トルニージョで一緒に切磋琢磨していた屋良有子さんが同コンクールで奨励賞をとる。「有子はとても刺激的な友人。そして、ストイックに練習を積み重ねられる人」「私はCAFフラメンコ・コンクールで奨励賞を受賞する前、二回同コンクールで予選落ちしているんです。特に第四回(〇七年)は、(日本フラメンコ)協会の新人公演で奨励賞をとった直後だったので『何でダメだったんだろう』って、すごく考えました。勢いで乗り切ろうとしていたんでしょうね、踊りにもおごりがあったと思います」と振り返る。二度の予選落ちを経験してから、他の人の踊りに目を向けるようになった。以前にも増してよく観察し、研究するように。そして三度目の挑戦で入賞し、スペイン留学の切符を手に入れる。「三回目は、踊り終わった後、何の自信もありませんでした。それが良かったのかもしれない」「フラメンコをやっている人って、アーティスト肌の人が多い。私はそうじゃないんです。わりと普通の人で、周りに対して順応性もある。踊りのキャリアがあるからかもしれないですが、振付を覚えるのも早く、ある水準までは器用にこなせてしまう」尖ったところがないというのが、フラメンコを続けてきてずっとコンプレックスだった。しかし、スペイン留学中に三十歳を迎え「あ、私はこれでもいいんだ、と思えるようになったんです」留学先のクリスティーナ・ヘエレン財団フラメンコ芸術学校には各国からの留学生も集っていたが、十代、二十代が中心で里さんが最年長だった。三十歳という年齢は、スペイン人ならばもはやベテランの域。「ユミは何歳?」と学校の友人に聞かれ「三十歳って、いえなかったですよ」と里さんは笑う。そうか、私ってもう「いい大人」なんだ。出来ていようがいまいが関係なく猛烈に進んでゆくクラスの振付、その復習、学校の授業以外に受講する個人レッスン、渡西中やらねばならないことをコツコツと積み上げていった。二〇一二年七月、里さんはすみだトリフォニー小ホールにて初のソロリサイタルに挑む。二百七十の客席を「里有光子」の名前だけで埋めるのである。スペインから帰国直後に新宿のエル・フラメンコでソロ公演をやったことはあるが、こちらは百五十席。テアトロ公演に二の足を踏んでいた彼女の背中をぐいと押したのは、師・森田志保さんだ。「若くて、エネルギーがあるうちにやりなさい」と。森田さんは教授活動やタブラオで活躍されているほか、自ら創りあげるフラメンコの舞台「はな」シリーズを定期的に劇場で発表している。これまでに六回の公演を行っており「はな6」は〇九年度文化庁芸術祭優秀賞を受賞している。「志保さんとの出会いは、それまでのフラメンコ人生におけるターニングポイントでした。滝沢さんにはサパテアード(靴音を操り多様なリズムを打ち出す技巧)を重点的に教えてもらいましたが、志保さんはマルカールをとても大切にしていて、これにかける時間が半端じゃなかった」マルカールとは「印をつける、拍子をとる」という意味で、コンパスにのってパソを踏むことである。高速の足技とは違い、ゆっくりしているので一見簡単そうだが自分でコンパスを刻む、基本の動きである。「ある日のレッスンで三十分間ずっとマルカールをやるというのがありました。志保さんはパルマを叩いているだけ。良いともダメともいわず、私たちひたすらマルカールをやっていました」この時、フラメンコって踊っていてリズムが合えば良し、という世界じゃないんだと気がついた。テアトロ公演はエル・フラメンコでのライブとは異なり、バックアーティストのほかにプロの舞台監督、音響、照明を頼む。それだけでも百万円は下らない。「緊張しますよ、すごく。でも、私が腹をくくるためには必要なことなんです」と里さんは表情を引き締めた。二十代の頃、フラメンコは続けて、でもふつうに仕事もして、結婚して、子どもを産んでと漠然と思い描いていた将来。こんなにフラメンコの比重が重くなるとは思いもよらなかった。そして今でも、まだ迷いながら、覚悟を決めようとしている。(二〇一二年二月取材) 気持ちを共有して踊りたい ――屋良有子 小学校までは沖縄で育ち、中学・高校時代を福岡で過ごしてきた屋良有子さんにとって、故郷から東京に行くのも、スペインに飛ぶのも、その心理的な距離は大して変わらなかったのかもしれない。大学卒業後すぐに自費で渡西した彼女は、これまでに一度も「就職」をしていない。帰国後もアルバイトをしながらフラメンコを続け、三十歳でコンクールの奨学金を得て再びスペインに九カ月間留学。帰国したその翌年には、文化庁の海外派遣員として一年間スペインへの留学を果たしている。踊ることも、身体を動かすこともフラメンコが初めてと話す彼女は、高校時代放送部に在籍し、その朗々とした澄み切った声を生かして全国大会で優勝したこともある。ごく自然にアナウンサーを目指していたが、早稲田大学のフラメンコ・サークルに足を踏み入れた時から、人生の指針を大きく変えてゆく。屋良さんは一九七七年生まれ。早稲田大学教育学部に進学し、フラメンコに夢中になりながらも、アナウンサーになる夢も温めていた。「大学二年の時、六本木にあるカフェ・デ・チニータスという、マドリッド本店の姉妹店でウェイトレスのアルバイトをしたんです。いわゆる高級タブラオ。そこで踊っていたプロのスペイン人の踊りに衝撃を受けました。自分はもっとクールな人間だと思っていたのに、そうじゃない、感情に突き動かされる瞬間があり、素の自分が出てくるのがフラメンコに触れている時なんです」店はあいにくその後二年で閉店。本場のフラメンコに触れたい、その思いで大学三年の時、三カ月間渡西する。アナウンサーを目指して、在学中から放送局が主催するゼミにも通い、計画的に行動してきた彼女だったが、初めてのスペイン行きで自分の中の何かが弾けた。もっと自由に、自分のやりたいことを素直にやろう、と。「すごく、ラクになりました」本当に自分はフラメンコの道へ進むのか。その思いを確認しようと翌年、再び三カ月の渡西を経て、決意を固める。一度だけ、六本木のチニータスに上京した父が寄ってくれたことがあった。「父は何もいわなかったけれど、良い印象を持たなかったのは感じました。スカートをたくし上げ、険しい顔で踊る踊り子に娘がなるのは抵抗があったと思います。今では、一番の応援者です」大学を卒業するとすぐにスペインへ。「在学中に目一杯バイトしました。下宿生活でしたが、何とか渡航費用百万円を貯めました」そうして、二〇〇一年から三年間、自費でのスペイン留学を敢行する。セビージャに滞在、ピラール・オルテガやアデラ・カンパージョ等に師事し、文字通りフラメンコ漬けの日々。「セビージャの魅力は『生』を生きているという実感。ユーロ導入前の最後のペセタ時代で、ヨーロッパというよりアフリカに近い感じでした。生活水準は低いけれど、今を一生懸命に、自分に正直に生きている。人々の輝く目や突き抜ける笑顔が大好きです」スペインはフラメンコを学ぶ場であるとともに「生きること」を実感する生活の場でもあった。 「三年間、毎日朝から晩まで踊っていました。踊るために食べたり眠ったりして、そういう生活がすごく楽しかった」その当時の練習を収めたビデオがある。お昼から夜まで、スタジオの窓の風景が明るい日差しから夕闇に変わっても、ひたすら回転の練習を繰り返している自分が映っていた。そういう、地道な練習を撮ったビデオがたくさん出てきた。「テクニカ(技術)は練習の量に確実に比例します。出来ないという言い訳を自分にしないよう、毎日の練習を欠かさないのは私にとって自然なこと」〇四年に帰国後は実家のある福岡に一旦戻り、〇五年から東京の松丸百合さんに、〇六年春からは森田志保さんに師事する。そしてその年の八月には、日本フラメンコ協会新人公演にて里有光子さんとともに奨励賞を受賞する。だが、その森田さんのスタジオも一年通い卒業している。自分とは異なる個性の踊り手を数多く羽ばたかせていることで知られる森田さん。「志保先生は何でも惜しみなくくれる人。技術、表現、気持ち、あらゆるものを。でも、そこでもらっているだけではだめなんです。スペイン留学中もそうでしたが、今自分に何が必要か、何を得たいのか常に自問し探していくのが、私の学び方です」時を置かず、翌〇七年二月には第四回CAFフラメンコ・コンクールにて第三位及び奨励賞受賞を果たす。この頃から、東京・大塚にあるシェアハウスに暮らしてきた。寝室は個室だが、キッチン、居間、風呂、トイレは共有の、三十人が共同生活するマンションだ。大学卒業後すぐに渡西。三年半で帰国後は松丸さんや森田さんに師事するも、長期間所属することはなくスペイン、福岡、東京を行き来する生活。スペインでは外国人である自分を常に意識させられ、東京にいても「福岡から出てきた自分」をずっと感じていた。私、屋良有子とは何か。一人でフラメンコに打ち込む孤独な時間と、心の深い部分で共演者とつながろうとする想いが、彼女のフラメンコを磨き上げてきた。〇七年の第四回CAFフラメンコ・コンクールでの第三位及び奨励賞受賞について、屋良さんは伴奏を引き受けてくれたギタリストの松村哲志さん、カンタオールの高岸弘樹さん、パルマの阿部真さんの名前を挙げ「まさにグループでの受賞です。この時は、創り上げるまで皆で一緒にいる時間も長かったし、たくさん合わせもやりました。気持ちを全部もらいました」といった。「彼らは、曲に対する私のイメージを理解し、共有してくれました。例えば、足の運びが他の人とはちょっと違う。『ふつうはこうするよね』といわずに『違うには、それなりの理由があるんだろう』といってくれる。本選ではアレグリアス(「喜び」を意味するスペイン語で、明るく快活な曲)を踊ったのですが、私は喜びそのものを表現するのではなく、喜びにいたるまでの苦しみや悲しみ、つらさに光をあてて踊りたかった。そのことを話すと、彼らはそのイメージを理解して音を作ってくれました。そのイメージを具体化するために、こういう音を入れようと。振付ありきで創るのではなく、創る過程を大切にしてくれる人が、私は好きなんです」本選には、大塚のシェアハウスの住人らが駆けつけ、彼女が舞台に上がると「アリコーッ!」と大きな声援を送ってくれた。奨励賞を受賞した彼女は、その年の秋から九カ月間、セビージャのクリスティーナ・ヘエレン財団フラメンコ芸術学校に留学する。そしてその留学の最中、アンダルシア州政府の企画でカルトゥハ修道院においてフラメンコを踊る機会を得る。その時の屋良さんの踊りを観た州政府の役人から後日、電話が入る。「今年のビエナルの併行プログラムで踊らないか」州政府としてビエナルに出す企画に参加してほしいという内容だった。世界的なフラメンコの祭典であるビエナルで、本プログラムではないけれどその一端にアルティスタとして参加できる。「やったー!って思いました。嬉しかった。何度も、本当に私で良いのか、確認しました」スペイン人ギタリストやカンタオールと何度も合わせをし、信頼関係を築き上げて四回のソロ公演に臨んだ。屋良さんは共演者のことを話すとき、よく「気持ちをくれる」と表現する。心の深いところで、何かを共有したい。それが、フラメンコを踊る上で一番大切だから。そんな屋良さんが「これまでのフラメンコ人生で最大のクルシージョ」と評するのが、〇九年秋に受講したエヴァ・ジェルバブエナのクルシージョだ。エヴァは名実ともに、現代フラメンコを代表するスター。クラシックや現代舞踊の巨匠たちとも舞台を共にしており、一二年一月に公開されたカルロス・サウラ監督の新作映画「フラメンコ・フラメンコ」でも二曲にわたり出演している。五日間にわたって行われた「劇場公演のための講座」は、エヴァ自身初めての取り組みで、実際に劇場を借りて行う大規模なものだったという。受講料は四百ユーロで、ほぼ丸一日のカリキュラムが五日続いた。「朝は十時から十四時までで、身体の使い方やコンテンポラリーダンスをやりました。例えば、動物の真似をする、大声を出す、自分が思うフラメンコのポーズをとる、といった感じです。ロルカの詩をエヴァが読んで、クラシックや効果音など五つの音楽が与えられて、その音を使って先のロルカの詩を自分で表現せよ、とかね。とにかく画期的で衝撃的でした」「いわゆるフラメンコの振付を教えるようなことは全くなくて、エヴァは『振付を習おうと思ってきている方や、習おうと思ったことが得られないと感じた方は残らなくていいです。受講料は返します』といって、若いスペイン人の踊り手は途中でやめていきました」屋良さんのような外国人も含め当初三十人ほどいた参加者は、最終日には二十人に減っていた。こんなお題もあった。「目を閉じるようにいわれて目を閉じると、キャーッと笑う声やキィーッという不快な音や、いろんな様々な音が流れてきて、その音を聞いて心が反応した瞬間に目を開けて部屋を出て行くという課題でした。でも、絶え間なく聞こえてくる音に何だか責め立てられているようで、なかなかその場を立つことができなかった」と屋良さんは振り返る。午後は十七時から二十時まで。音楽監督や衣装、照明、カンタオールなど劇場公演を創りあげるのに必要なプロフェッショナルが来て、話をしてくれた。「文化庁の海外派遣員としてスペインに到着後一週間でこのプログラムを受講してしまったので、その後、私、これからどうしたらいいんだろうと途方にくれてしまいました。そのくらい、ショッキングな講座でした。しばらくコンテンポラリーダンスのレッスンを受けたり、クラシックを聴いたり、本を読んだり、日記をつけたり……フラメンコ以外の時間を大切にしました。そうしたら、フラメンコがより分かるようになったんです」心の深いところで何かを感じて、そのことを他者と共有したいと考えている彼女にとって、このクルシージョはどれほど刺激的で濃密な時間だっただろう。「フラメンコは私にとって憧れでした。学べば学ぶほど自分と距離があることを痛感する。それでも近づきたくて夢中で走ってきました。でも、立ち止まったとき気付いたんです。自分の中を見なければいけないって。そこにフラメンコがあるんだって」 上達することに貪欲であれ ――篠田三枝 フラメンコを始めてわずか二年、二十七歳でタブラオにレギュラー出演するようになった篠田さんは、毎週の本番が自分を磨いてくれたという。「ステージでの失敗は山ほど。数え切れないくらいですよ」パルマの叩き方もよく分からず、ゲストのプロバイレが抜ける(見せ場が決まる)ところで感動のあまり立ち上がって拍手してしまったり、自分が踊ればお客から「発表会じゃねーんだよ」と罵声を浴びせられたりした。実力不足を痛感しても、一度も本番を降りようとは思わなかった。「私、フラメンコを始めてまだわずか。これから、まだまだ上手くなるから、もう少し待ってよ」そう心の中でお客に呼びかけ、毎回ステージに立った。フラメンコはどんなに練習を重ねても、ギターやカンテと共演する本番を通してしか、身につけられないものがある。篠田さんは当時、いくら恥をかいても本番のプレッシャーから逃げなかった。「一度間違えたことは、二度はやらない。とにかく周りには『ごめんなさい』と平謝りに謝って、一生懸命踊りました。フラメンコを学べば学ぶほど、習いたての頃の自分がどれだけステージで迷惑をかけていたかが分かり、だからこそ、同じ失敗は繰り返さない、上手くなろうとクルシージョを受け続けました」篠田さんは一九七三年生まれ。香川県高松市の出身。大学卒業後はコンピュータ関連の会社に勤めている。運動不足を解消しようと、二十五歳のときに行ったカルチャースクールでの体験レッスンがフラメンコだった。大学時代はハンドボール部のマネージャーだったが、基本、スポーツとは縁遠い生活を送ってきた。中学では卓球部に所属していたが、理由は「他の運動部に較べラクだったから」「カルチャースクールでアルゼンチン・タンゴかベリーダンスか、フラメンコをやろうと思っていました。たまたま最初に行った体験レッスンがフラメンコだったんです」仕事ではデスクの前のパソコンと睨めっこで、座りっぱなしの生活だったから、身体を動かして踊るのは爽快だった。小学校の六年間ピアノを習っていた以外は特に踊りの経験もなく、運動嫌いで通っていたというのが信じられないくらい、カルチャーではめきめきと上達した。ちょうどその頃、一つ上の大学時代の先輩と結婚したばかりだった。彼は仕事で忙しく、一人の時間を持て余していたのもカルチャーに足を運ぶきっかけになった。「パソの覚えも早かったので、カルチャーでは『天才!』ともてはやされ、自分の力を勘違いしちゃったんです」と篠田さんは笑った。小林和賀子さんが教えるカルチャーのクラスに一年半通い、二〇〇〇年十月にはスペイン・グラナダに三カ月間の留学を果たす。「スペイン語もよく分からず、フラメンコのレッスンで初級クラスのつもりが上級クラスをとってしまって。シギリージャの振付クラスで、毎日あるとてもハードなレッスンでした。私のためにクラスが遅れるのはいやだったので、その日に習ったことは必ず翌日のレッスンまでに出来るようにしました。もう必死でした」スペインから帰国すると、八王子のタブラオ・カルメンで毎週島崎リノさんや今枝友加さん、阿部真さんらと共にレギュラーを務めるという、この上ない実践の機会を得る。「『カルメン』の他に、横浜の『キャベツ』というスペイン・レストランでも月三回レギュラーを持たせてもらい、松島かすみさんや土井まさりさんたちと踊っていました」この、ほぼ週二回の本番が、未熟だった彼女のフラメンコを鋼のごとく鍛え上げる原点となった。「タブラオライブだと、初対面のギタリストが本番五分前にやってきたり、カンテがいなくて踊り手が交代で歌を歌ったり。踊りも下手でしたけれど、本当にいろんなことを試したり、歌を勉強したり、ありとあらゆる試行錯誤をやりました」そんなライブを、篠田さんは〇三年の出産まで続けた。週二回本番で踊るかたわら、昼間は派遣社員として働いた。「昼休みの一時間は会社のビルの屋上で練習するんです。ホラ、おじさんたちがよくゴルフの素振りの練習をしているでしょ。その横で、私はタカタカタカタカやっているわけですよ。そして、仕事帰りにはレンタルスタジオで毎日二時間練習しました」篠田さんは三カ月間の渡西から帰国してすぐ、日本でもスペイン人のクルシージョを受け始めている。プロをめざして、ではない。「ただ、上手くなりたかった」高校時代の親友は故郷でバレエの先生になった。彼女は本当に幼い頃からバレエをやっていて、二十年近くバレエを踊って、それでちょっと、教えられるくらいになった。バレエの世界は層が厚い。そんな親友を間近に見てきたので「踊りでプロになる」なんて、そんな簡単なことじゃないとよく分かっていた。〇三年秋に長男を出産後は、しばらく踊らないだろうと思っていた。大変なお産だった上に、十六キロも太ってしまった。全く踊る気がないところにフラメンコ仲間から「私たち、今年(〇四年)の新人公演に出るから、三枝ちゃんも出なさいよ。これ、申込書。一緒に協会に持っていってね」と友人たちの分の出演申込書を託されてしまったのだ。今回申し込まなかったら、この後本格的にフラメンコを踊ることはないかもしれない。篠田さんも、周りもそう思った。この、産後十カ月で出演した日本フラメンコ協会新人公演で、彼女は思いがけず奨励賞を受賞する。〇歳児がいる生活で、満足な練習時間などとれるはずもなかった。自宅のマンションで子どもが寝入った後、隣の部屋に古い絨毯をたくさん敷き、さらにその上にゴムシートを敷いてパソを踏んだ。そういってから「コレ、練習になってないですよね」と篠田さんは大笑いした。新人公演前に一度だけ五日間のクルシージョを受講し、ギターやカンテとの合わせは四回ほど。「産後十カ月の私に誰も受賞を期待していないし、私自身も上手く踊ろうというプレッシャーは皆無でした。ただ、育児から解放され、外出できた! 私だけの楽しい時間としか思っていなくて、とにかく早く本番で踊りたかった」その弾けるような、無垢な喜びが伝わったのだろう。この時踊ったアレグリアスは見事奨励賞に輝いた。その後は、縁あってえんどうえこさんのスタジオで講師をしていたこともあり、子どもが三歳になると保育園への入所を希望して、本格的にフラメンコに復帰する。といっても教えたり、ライブに出演して得られるギャラはまだわずか。自分が、スペイン人のクルシージョに支払う受講料のほうが、収入を上回った。自営業の夫はとにかく多忙だったが、経済的な支えになってくれたことも確かだった。ペパ・マルティネスやメルセデス・ルイス、エステル・ファルコン、ラ・モネータ、ソラジャ・クラビホなど、本当に多くのアルティスタのクルシージョを受けた。一一年には、二十七歳にして数々の賞を受賞しスペインでも傑出したアルティスタのひとりとして注目されているロシオ・モリーナの来日クルシージョにも参加したという。「あ、この人のレッスンを受けたいと思ったら、迷わず申し込んでいました」四十歳までは、もっとフラメンコが上手くなることだけを優先していこうと思っている。ロシオ・モリーナのレッスンはとても細かくて、音のとらえ方にも一切妥協がなかった。ペパ・マルティネスはとても丁寧に、一生懸命教えてくれる。日本人だからどうせ出来ないとは思わず、勢いで踊らないことを教えてくれた等など。匂い立つようなアルテを身にまとっている踊り手でも、考えて考えてフラメンコを踊り、そして体型にコンプレックスを感じていてもそれを補うように技術を身につけている様が垣間見えた。「たくさんのスペイン人のレッスンを受けたので、誰か一人の踊り手に強く影響を受けてその人のように踊るということが、私にはありません。その人から振付を習っても、必ずその通りには踊れない、私は踊らない、と思うときがあるからです。数多くのクルシージョを受けるうちに、例えば『哀しい』を表現する方法がたくさんあることを知る。人によってその表現は異なる。あぁ、でも、あのレッスンもこのレッスンも実はいいたいことは同じ『哀しい』なんだと、受けていく中で気が付くんです。そのことに気が付くと、自分の表現の幅が広がっていきます」そして、それは習っただけでは身につかない。ステージでの実践を重ねていくことで、確実に自分のものになってゆく。「私たち日本人はフラメンコを踊るときに、いろいろ習って、素晴らしい踊りを見て、あれもやりたい、こうなりたいって追い求めるんですが、意外に自分自身を見ていない。自分を知る、見つめるってとても大切なことだと思うんです」〇七年のCAFフラメンコ・コンクール本選に出場した時のこと。サパテアードがすごいといわれていた篠田さんは、なぜかそのことがとてもいやだった。「足だけの人」と思われたくなくて、本番ではあえてエスコビージャ(サパテアード中心の部分)をとり払った構成で勝負に出る。優勝者とは大きく引き離された点数が出た。「でも、その後のライブの本番でエスコビージャを思いっきりやったら、とても気持ちよかったんです。苦手なことは、マイナスじゃなきゃいいんです。せめて基本の『ゼロ』まで戻せばいい。むしろ得意なことをプラス二からプラス五になるよう伸ばしてやろうと思いました」それは、日本で活躍するスペイン人舞踊家で、振付家としても有名なベニート・ガルシアさんにもいわれた。「日本人は苦手なことばかり練習する」苦手なことは、足を引っ張らない程度に出来ていれば良しとする。苦手を克服して花丸をもらう必要はないのだ。それより、良いところ、得意なものを最大限に伸ばそう。「そのことに、ここ二、三年かけて気がついたら、踊りに迷いがなくなってきました」一一年夏に行われたベニート・ガルシア公演「証 AKASHI」(シアター1010)に出演した篠田さんは、自身で振付けたアレグリアスの中でベニートさんと希望に満ちた素晴らしいパレハ(男女ペアで踊ること)を見せてくれた。 「私のフラメンコは、人との出会いに支えられてきました。二十代の頃、一緒にタブラオに出演し成長してきた仲間たち、小林先生、えんどう先生には本当に感謝しています。生活の中にフラメンコが息づいているアンダルシアの人々と違い、私は日本人なので、一人では決して上手くなれない。踊り手、ギター、カンテ、いろいろな人からアドバイスをもらい、いわれたことは一度とにかくとり入れて試してみます」四十歳までは、もっとフラメンコが上手くなることだけを優先していこう。そうして踊ってきた結果、ライブや公演に呼ばれる機会が増え、「教えて欲しい」とグループレッスンや個人レッスンの申込みも増えてきた。期せずして、フラメンコは仕事になった。夫はフラメンコには関心がなく、子育てや家事を分担してくれることもなかったが、夫の両親は、レッスンやライブに行くときに快く孫を預かってくれた。小学二年生になった息子は、夜のレッスンの間スタジオの控え室でDSをやりながら待っていてくれるまでに成長した。思うようにできずに落ち込んだり、低い評価に悩んだりすることはあっても、良い本番が巡ってきて気持ちを盛り返す。「今できなくても当然。だってフラメンコに出会って十数年。まだ、そんなに上手く踊れるわけがないから」(6につづく)
37歳で銀行を辞めスペインに短期留学。母の介護と早すぎる死を経て、その後もほぼ毎年、短期渡西を繰り返しながら自分のペースでフラメンコと向き合い続けている鶴幸子さん。私たち30代、40代女性の等身大の、リアルなフラメンコ人生がそこにある。 Flamenco × Life 4 ナチュラルでしなやか ――鶴幸子 萩原さんやリノさんを取材してきて、鶴さんのこともぜひ書かせてほしいとお願いしたら、踊り手・鶴幸子さんは開口一番「萩原さんやリノさんみたいなすごい人たちと一緒に並べないでくださいよ」といいながらも「私で役に立てることがあれば、何でも協力しますよ」といってくれた。銀行を辞めスペインに短期留学し、母の介護と早すぎる死を経て、その後もほぼ毎年、短期渡西を繰り返しながら独自のペースでフラメンコと向き合い続けている鶴さんの生き方には、自他ともに「プロ」を認識し活躍する島崎リノさんや萩原淳子さんとは全く異なる魅力がある。私たち三十代、四十代女性の等身大の、リアルなフラメンコ人生がそこにある。鶴さんとの出会いは二〇〇七年、センスの良いマーメイドファルダがきっかけだった。当時、練習用のファルダといえばAラインのフレアースカートが定番だったのだが、取材で横浜にある箆津弘順さんのスタジオを訪れた際、練習生の何人かがウェストからお尻にかけてのラインがぴったりしていて、小ぶりなボランテ(フリル)が裾にかけて幾重にもあしらわれているマーメイドラインのオシャレなファルダを着用していたのである。パッと目にも洗練されていたそのデザインは、いかにも「スペイン人の稽古着」という雰囲気で、カッコよかった。そのファルダをスペインから購入していたのが、鶴さんだったのである。ファルダだけでなく、鶴さんの舞台衣装はスペイン・マドリッドで自分の希望を伝えてオーダーしているだけあって、デザインも、生地の選択も、色合いも、すべてモダンで粋なものばかり。フリーペーパー「ファルーカ」でそのマーメイドラインのファルダを紹介したところ、思ったとおり大反響だった。衣装のセンスも抜群な鶴さんに「みんな、こういう衣装が着たいと思っているのよ。もっと大々的に紹介したら受けるのでは?」といってみたが、彼女は、衣装とはその人の希望や体型に合わせて注文生産するものだから、誰が着るのかも分からない衣装を既製品として仕入れるやり方には抵抗があると、乗り気にはならなかった。現在、既製品の衣装はたくさん販売されている。数ある衣装の中から自分に似合うもの、自分が着たいものを購入するのが一般的だろう。けれど、衣装も振付と同じ。「可愛い!」「ステキ!」と一目惚れして購入しても、実際に踊る曲種とイメージが合わなかったり、踊りにくかったり、改善しなければ自分にしっくり合わないこともある。振付も、教えられたとおりに踊っているうちは感動を呼ばない。けれど、自分なりの思い入れや感情が踊りに反映されたとき、プロであろうとなかろうと、観ている人はその表情や動きにハッとして引き込まれる。それがフラメンコの醍醐味だと思う。 鶴さんは一九六六年生まれ。私立雙葉中学・高校を経て、東京女子大に進学。在学中は体育会系バスケットボール部に所属し、主将も務めている。フラメンコとの出会いは、大学卒業後旧日本興業銀行に就職してから。カルチャースクールからスタートし、日本では花岡陽子さんや箆津弘順さんらに師事。会社員の彼女にとって、フラメンコは夢中になれる楽しい趣味の一つであったに違いないが、旧興銀が〇二年、富士銀行、第一勧銀と対等合併し、みずほ銀行になると同時にフラメンコは人生の主役に躍り出てくることになる。それまで興銀の本部付きで仕事をしていた鶴さんは、みずほコーポレート銀行に移り、当時の多くの行員が経験したように意に沿わない異動の対象となる。新しい職場で奮闘したが、今までの「打てば響く」ような職場とは仕事の進め方も士気も全く違っていた。疲れきった三十七歳の彼女の気持ちは、ぐんぐんフラメンコへと傾倒していった。バブル期の銀行に就職し十四年間勤め上げた彼女には、十分な蓄えもあった。「フラメンコをやるためにスペインに留学します」そういって、〇三年銀行を辞めた。日本で通っていたスタジオでは代理教師を務めるほどだったが、「プロの踊り手になろう」という固い決意が、鶴さんの中にあった訳ではない。それは、その後渡西を繰り返し、都内の様々なタブラオでステージに立つようになり、請われてグループレッスンを引き受けるようになった今でも「踊り手・鶴幸子はプロであるか」という根幹は、彼女の中では揺らいでいるように見える。ひとつだけいえるのは、彼女は「プロになるために」フラメンコを続けてきた訳ではないということだろう。今でも、フラメンコのライブやレッスン以外に普通のアルバイトをしながら、川崎の実家に父親と二人で暮らしている。彼女に「本格的に教えることはしないの?」と訊ねると「せっかくスペインでレッスンを受けてきたんだから『トゥルコに教わった、この曲のこういう振り、ね、カッコいいでしょ!』っていう感動を、フラメンコを踊る人たちと共有したいんです。初心者を対象に、毎年セビジャーナスを一から教えるようなレッスンにはあまり魅力を感じないし、それは私がやりたいことじゃないんです」といった。セビジャーナスとは、フラメンコを習い始めるときに最初に習得する三拍子系の有名な踊りで、アンダルシア地方セビージャの春祭りで踊られることで知られる。今しかできないこと、好きなことをやろうと晴れてスペインに渡った彼女は、語学学校に籍を置きながらフラメンコ修行の道に入った。だが、渡西して五カ月あまりで急きょ日本に呼び戻される。三十年来リューマチを患っていた実家の母の状態が悪化し、ほとんど寝たきり状態になったというのである。もともと、母の状態はあまり良くなかった。渡西前にも主治医から「よくこんな時にスペインに行くね」といわれた。すでにその五年前から階段の昇り降りや入浴、着替えの介助が必要な状態で、それは同居する鶴さんの役割でもあった。銀行を退職する二年前からは、朝、激しい痛みのため自力では起き上がれない母のためにパンと飲み物を用意してベッドまで運び、その簡単な朝食を食べさせてから痛み止めの薬を飲ませるのが、鶴さんの出勤前の日課だった。母親に介助の手が必要なことは百も承知だった。「半年間だけ、スペインに行かせてもらおうと思ったんです。もしこの先、母の状態がもっと悪くなったら、それこそ行けなくなると思って」スペインから帰国すると、夜中トイレに行こうとした母は転んで脊髄を損傷し、首から下が全く動かない状態になっていた。妹も弟も結婚し、家を出ている。動けるのは長女である自分しかいない。病院から自宅に戻った母には、二十四時間の介護が必要になった。明け方の午前三時から九時まで、父に代わってもらって仮眠をとる以外は、ずっと母親に付き添う生活が始まった。ほぼ寝たきりの母は床ずれがひどくなり、近所の病院に入院することになった。ある朝、鶴さんは病室を訪れた。「朝から、何だかいうことがかみ合っていないなぁと思っていたら、突然血圧が下がり始めたんです。一度帰宅したら、病院からすぐ連絡がきて『輸血していいか』って。急いで病院に戻ったら、呼吸も早くなってすごく苦しそうにしていて。ずっとベッドの横で付き添っていたんですが、あ、呼吸が静かになったな、落ち着いたのかなって思ったら、もう心臓は止まっていました」〇四年六月のことだった。「リューマチの薬って、とても強いんです。母はそれを三十年近く飲んでいたので、心臓にも大きな負担をかけていたんでしょうね」「鶴幸子(つるさちこ)」というのは、彼女の本名ではない。フラメンコを踊るときに使っている芸名である。由来は、彼女がスペインで最も影響を受けた踊り手ラ・トゥルコからと、亡くなった母の名前・幸子(ゆきこ)からとったのだという。「妹が生まれた時から母はずっとリューマチだったので、それが私にとっても家族にとっても、生活の中に溶け込んでいました。ケンカしながらお風呂に入れてあげて『もう、何で私がこんなこと』っていうと、母も負けじと『あなたが早く結婚しないからよ。じゃぁ、結婚してこの家を出て行けばいいでしょ』って。母の友人たちには、とても支えられました。皆さん『病気が辛いだろうに、どうしてあんなふうにいつも前向きに、明るくいられるのかしら』って。母は刺繍や編み物などいろんなことをやっていて、友だちもよく家に招いていました」ずっと痛みを抱えて生きていた母が、一番辛かったんだろうな。どうして、もっと優しくしてあげなかったんだろう。そう思ったのは、本当に最期のときだった。母の死後三カ月経って、鶴さんはもう一度スペインに渡る。マドリッドのアモール・デ・ディオスを中心にレッスンを受け、およそ三カ月滞在する。アモール・デ・ディオスとは五三年に設立され、多くの世界的なアルティスタを輩出した有名スタジオである。 今でもバイレ(踊り)をはじめ、ギターやカンテ、スペイン舞踊など様々なクラスが開講されている。受講生数は千人近いともいわれ、講師陣のみならず受講生にも有名アルティスタが混ざっているというから、まさにモデルノ(現代フラメンコ)の聖地ともいえる。ここでは、それぞれ掲示板などに貼り出されたクラススケジュールを確認し、自分で受けたいレッスンを選び、直接クラスに向かう。有名なマエストロのクラスでは、プロとして活躍しているアルティスタが受講生として参加していることもあるが、クラス主催者が受講希望者をわざわざ「レベル分け」するようなことはしない。レッスンについてくることが出来なければ、壁際に追いやられるだけ。ここでは誰が踊れていて、誰が踊れていなかろうが、そんなことは誰も気にしない。講師は、自分のアルテを惜しみなく伝えるだけである。鶴さんはここでラ・トゥルコをはじめ、マリア・フンカルやペパ・モリーナ等に師事する。その後、日本に帰国してからもほぼ毎年、一、二カ月の単位でスペインに向かう。そのせいだろうか、鶴さんの踊りはいつ見ても観客を飽きさせず、ステージでハッとする瞬間が必ずあるのだ。 その鶴さんが、日本フラメンコ協会が主催する新人公演に出るという話を聞いたのは、一一年の年が明けてすぐだった。「今年、新人公演に出ようと思って」鶴さんはまだ迷っているようだった。新人公演は八月のお盆過ぎに行われるが、エントリーするならもう準備に入らなければならないという。年齢的にもキャリア的にも、彼女は「新人」ではない。新人公演に申し込むのに別に年齢制限はないが、鶴さんがよくタブラオで共演している斎藤克己さんは「君はもう新人じゃないんだから、賞をとりにいくのでなければ出場はマイナスだ」といったそうだ。斎藤克己さんは西日暮里のスペイン・レストラン、アルハムブラのステージを中心に踊っている、数少ない日本人バイラオール(男性舞踊手)である。スマートでエレガントなその踊りは、長年のスペイン滞在と斎藤さん自身が青年時代から培ってきた美意識によるものなのだろう。斎藤さんは舞踊活動だけでなく、執筆、演出、振付など幅広い分野でその才能を発揮してこられた方である。少年の頃から当たり前のように日舞の稽古に通い、社交ダンスを習得し、美大に進学してからは在学中にスペイン・サラマンカ大学に留学。そこでフラメンコに魅せられ、八〇年マドリッドのサルスエラ劇場でプロの踊り手としてデビューしている。大病を患うまでおよそ十年間にわたりスペインの舞踊団と契約しヨーロッパ各地の公演に参加してきたという、異色の経歴の持ち主である。斎藤さんは恐らく、踊り手としても人生の上でも「これから」という時に死と向き合うような病を経験したせいか、どこか達観したところがある。自らステージに立ちながら、後進の発掘にも熱心である。フラメンコの理想は「究極の個」。師弟関係にあっても、自分とは異なる「個」を、その個性がより輝くように育てるという土壌は、日本ではまだ途上であるように思う。斎藤さんは「これは」と思う踊り手がいれば、自分のステージに誘う。ライブのときも、必ずその若手の踊り手を褒め、舞台にのせる。斎藤さんのアドバイスを耳に留め、鶴さんは新人公演に向けて「観客の印象に残る作品」「自分らしいフラメンコを踊る」ことを目標に動き始めた。鶴さんは、六年前の〇五年にも一度新人公演に出場している。そして、さらにさかのぼること十三年前の九八年の同公演では、「花岡陽子スパニッシュダンスカンパニー」のメンバーとして群舞部門に出演し(この時は本名で出場している)、奨励賞には及ばなかったが見事努力賞を獲得している。新人公演は三日間にわたって合計九十組近い出場者がそれぞれギターや歌、踊りを披露する。出場者はもちろんだが、三日間通しで鑑賞する方もかなり体力がいる。知名度のある人、タブラオでよく踊っている人、スタジオのフラメンコ友だち(フラ友)、それまで全く知らなかった人、本当にたくさんの人が出演するので、何年か続けて新人公演を観ていると、その九十組の中から奨励賞に選ばれる踊りというものが何となく見えてくる。技術が高い(安定している)というのはもちろんだが、踊りが上手いだけではどうも受賞には至らないらしい。そして、日本フラメンコ協会の姿勢として「(賞は)優劣順位をつけるためのものではない」ところがポイントである。「公演」の名に相応しい構成やインパクト、受賞作品にはそれがあるのではなかろうか。もちろん「フラメンコである」ことを逸脱しない上で。交友関係の広い鶴さんは、友人・知人の多くが新人公演に出ていることもあり、ほぼ毎年会場に足を運んでいる。〇九年頃だったか、夏に「今年も行きますよね」と聞くと「どうしようかなぁ」といった。新人公演に出るには、渾身の一曲を創りあげ、それを技術的にもミスなく踊りこなす鍛錬と集中力、そして情熱がいる。「新人公演を観に行くたび、みんな頑張っているんだなぁ、すごいなぁって思う。それに較べて、今の自分の『これからどうしていこうか』っていう宙ぶらりんな感じが突きつけられて」客席から見ているだけでは分からなかったが、エントリーするということは、今の自分にやれる最大限の可能性を探ることなのだと私も思い至った。鶴さんには、実に多くのフラメンコ友だちがいる。プロとして活躍している人、それを目指して頑張っている人。ただ、フラメンコを踊ることが好きな人。以前、一緒にレンタルスタジオに行ったら、更衣室で会う人、会う人、皆知り合いなのでは?と思うほど、たくさんの人に声をかけられた。それも、師事している先生も、出身も、本当にさまざまなのである。聞けば、スペイン滞在中に同じアルティスタのレッスンを受けたり、ホテルが一緒だったりして顔見知りになったそうである。そうした、親しい友人のひとりに踊り手の小島裕子さんがいる。小島さんは草野櫻子さん・原田和彦氏の下でその実力を認められ、〇三・〇四年とマドリッドのタブラオ、トーレス・ベルメハスに出演し、その後ハエンのリナーレスにてペパ・マルティネスに師事。〇五年の愛地球博のスペインパビリオン・アンダルシア週間にも出演した経歴を持っている。「力強く、意思のある踊りなのに、とてもナチュラルな身体の使い方をする、素晴らしい踊り手だ」と鶴さんはいう。フラメンコをやっている人で、あるレベルまで突き抜けた人とはストイックな努力と、本番での実践を積み重ねてきた人たちである。そして、その努力をずっと継続できる人。一方、鶴さんには良くも悪くもガツガツしたところがない。経歴や踊りをみても決してアマチュアではないし、他の人にはない様々なアンテナや独自のキャリアを持っているのだから、もっと自分を売り込めば良いのにと思うのだが、それをしない。しないところが、鶴さんの魅力でもあるのだけれど。鶴さんは、小島さんに新人公演に出ることを話した。ひととおり話を聞くと、小島さんは彼女に「さっちゃんが何をやりたいのか、私には分からないわ」といった。「手厳しいねぇ」と私が驚いていると、鶴さんは笑って「私と裕子ちゃんの仲だから。私も、この年齢で出るのもあるから何となく気後れもあって、軽くいったんです。『新人公演に出てみようかなぁ』って。でもね、彼女のあの身体の力を抜きつつ、それでも力強く芯がある踊りには、本当に学ぶことがたくさんあるんですよ。だから、彼女に個人レッスンをお願いすることにしたの」という。力強いけれど、ナチュラルでしなやか。これは、鶴さんが目指すフラメンコの重要な一要素。フラメンコというと、大音量のサパテアード(靴音)、つりあがった眉、キレのある動きなど「カッコイイ!」と同時に「ちょっとコワイ!」というイメージも、初めて観る方にはあると思う。実際、フラメンコの足の動きは身体に大きな負担をかける。姿勢が悪かったり、身体の使い方が正しくないと、膝や腰を痛めることにもなりかねない。鶴さんは独学でピラティスを学び、筋力を鍛え柔軟性を高めることで余分な力を抜き、より自在に、自由に、激しいフラメンコの振付を踊りこなせるのではないかというアプローチもしている。この「余分な力を抜く」というのが、踊る上ではとても大切で、そしてなかなか出来ないことなのである。小島さんの個人レッスンを受けた後、鶴さんは五月、アンダルシアのリナーレスに飛んだ。新人公演まであと三カ月ちょっと。鶴さんからのメールには「自分の身体の使い方に自信が無くなってきたので、スペインで一週間個人レッスンを受けてきます」とある。リナーレスは首都マドリッドから南下しグラナダの手前、昔は炭鉱で栄えた町である。ここで、小島さんも師事したペパ・マルティネスの集中レッスンを受けてきた鶴さんは、新人公演で踊るソレアの振付をペパに見てもらった。「本当は身体についたクセを直すつもりで行ったのだけれど、いわれたことを自分のスタイルに取り込めればいいんだって気がついたの。スタイルは変えずに、誤りだけは直そうと」リナーレスにはタブラオは一軒もなく、ペーニャが四軒ある。鶴さんは日本人の友人に誘われて、ペパやその友人たちが出演するペーニャに参加した。「ここではカンテが踊りのためにあるわけじゃなくて、カンテはずっと歌っていて、踊るほうもずっと踊っている。タブラオがないから踊りのために合図を出すとか、バイレのための決まりごとをカンテが承知していない感じなの。でもね、そういう決まりごとや概念を取り払ってしまうと、すごくラクで、フラメンコを楽しめる」ここで彼女は「歌うから踊れ」といわれ、ほとんど即興のようなノリでブレリアを踊った。「歌のどこで入っていこうか、よく聞いているんだけど、ここか、と思って入ろうとしたらまた歌が続いていく。あれっと思って、で、ここかな、いいやって踊り出したんだけど、コンパスを外さなければどこで入ってもいい。すごく難しいと簡単が、紙一重だなぁって。フラメンコの始まりって、こういうところにあるのかもしれないね」誰しも、目指す踊り手、理想とする踊り手がいる。あの人のように踊りたいという密かな目標を抱き、その遥か高い目標を追いかけて精進しているうちに、自分の内なるアルテを磨き上げることにつながっていくのだとしたら、それは本当に嬉しいことだ。最初は誰でも真似から始まる。いつしか「似ているけれど、こっちのほうがステキだったね」といわれるようになりたい。鶴さんは、師と仰ぐラ・トゥルコについて「リラックスしながらナチュラルに動き、上体のやわらかさで踊りを見せるトゥルコの教え方、踊りに感動した」と話している。同じ曲、同じ振付で踊っても、踊る人間が異なれば同じフラメンコにはならない。それはフラメンコが、踊る人間の生き方が色濃く反映される踊りだからだと思う。音楽に反応する踊り手の心、振付へのこだわり、身体の動かし方が、その人独自のアルテを形成してゆく。 新人公演に挑戦する 鶴さんは、新人公演でソレアを踊ることに決めた。演目は出演者が自由に決めてよいことになっている。ソレアはスペイン語で「孤独=soledad」の意で、全てのフラメンコの原点ともいわれる。フラメンコに携わる人間にとっては、バイレにとっても、ギターにとっても、カンテにとっても特別な存在の曲である。演者は、特別な思いを込めて踊り、爪弾き、歌う。そのアルティスタの個性、フラメンコらしさが最もよく表れる、いや表れてしまう曲ではないかと思う。プロのソロ公演などでも最後の演目としてよく登場するのがソレアである。 カンテは、実力派カンタオールの阿部真さんが引き受けてくれることになった。男気のある歌いっぷりが魅力的な阿部さんは「スペイン人らしく歌う」数少ない日本人カンタオールである。阿部さんのカンテを初めて聴いたとき「日本人で、こんなふうに歌う人がいるんだ」と驚いた。幹の太い、安定感のある、その場を包み込むような歌声だった。その場に同席していた皆が、ライブが終わるなり阿部さんのカンテを絶賛した。阿部さん自身は、二〇〇四年新人公演のカンテ部門で努力賞を受賞している。ギターは、斎藤克己さんのステージで共演している渡辺イワオさん。何度も本番を共にしている渡辺さんとは気心も知れ、信頼関係がある。三十二歳の渡辺さんは、自身もギター部門で今回エントリーしていた。そして、バイオリンの森川拓哉さんが入ってチームは出来上がった。新人公演にギター以外の楽器を入れることは異色である。伴奏はふつう、ギターとカンテ、パルマ(手拍子)で構成される。カホンと呼ばれる長方形の箱型の打楽器が入ることはあるが、それもごく稀である。伴奏者として舞台に上がれるのは「三人まで」という規定なので、別にバイオリンを入れても違反にはならないが、ギター以外の楽器を入れると減点対象になるとかならないとかいわれている。確かに、バイオリンの高い音色が入るだけでぐっと華やかになり、それだけで作品の印象を上げてしまうから、審査するほうが公平を期そうと辛口になっても無理はない。鶴さんは、マイナスに響くかもしれないが当初から「バイオリンは外せない」とこだわっていた。「自分らしいフラメンコ」を表現するのに、大好きなバイオリンを絶対に入れたいというのである。それは、他の誰でもない森川拓哉さんのバイオリンだからだろう。森川さんは一九七八年生まれ。早稲田大学を卒業後、アメリカ・バークリー音楽院に三年間留学し、ジャズ・バイオリンと即興理論を徹底的に学んできた人である。ギターとカンテが奏でる音楽に、バイレがサパテアードを踏み鳴らすというフラメンコの古典的な風景に、艶やかな弦の響きで新風を吹き込み、まさにそれまで見えていたフラメンコの景色を変えてゆくのが森川さんのバイオリンなのである。最近では、ライブや公演でバイオリンやベースなどの楽器を採り入れるのは珍しくなくなってきた。しかし、フラメンコのコンパスを着実におさえながらバイオリン特有の、流れるような美しい音色を重ね、かつ共演者の魅力を最大限に膨らませていくには非常に高い技術が求められる。華やかな添え物としてのバイオリンではなく、フラメンコに食い込み、内側からその音楽性を豊潤なものにしていくという確たる役割が、森川さんには期待され、そして毎回その期待に見事に応えているプロ意識の高い方である。まだ三十代前半と若いアルティスタだが、ここ数年は小島章司さんや碇山奈奈さん、入交恒子さんといった大ベテランの公演に参加していることからも、その音楽性が高く評価されていることが伺える。新人公演における出演者一人の持ち時間は七分半。踊る曲にもよるが、通常のタブラオライブだと一曲踊るのに十分から十五分程度かかるから、いつもの踊りを七分半以内に終わるよう再構成しなければならない。もちろん、テアトロ公演に相応しい見せ場を作りつつ。これがなかなか難しい。鶴さんは、いつも踊っているトゥルコのソレアをベースにアレンジし、七分半に収まるよう作り直したが、どうもしっくり行かない。阿部さんや渡辺さんは「見せ場を詰め込みすぎではないか」という。内容が盛り沢山で引くところがないから、逆に「何をやりたいのか、分かりにくい」というのである。最初の合わせは六月二十二日。そこで、かなり再構成が必要という話になり、猛暑の夏、本番の八月十九日まで四回の合わせをすることになった。ギターの渡辺さんとは、それ以外にも九回近く練習を重ねている。七月二十日の午後から四谷三丁目にあるスタジオで全員揃っての合わせをするというので、取材に行った。その日は台風が関東に接近し、どんよりとした空模様に湿度も上昇して蒸し暑い日だった。阿部さんは、今回の新人公演で実に八組の出場者のカンテを引き受けていたのでスケジュール調整が難しく、伴奏者全員が顔を合わせる貴重な時間だった。難航していたのは、一つ目の歌が終わってエスコビージャ(サパテアード中心の部分)に入るところ。「ギターとバイオリンがずっと併走しているのも僕は気になって」と阿部さんがいう。「もっとテンションを上げていかないと。どういう感じがいいのかなぁ」と阿部さんは考え込み、自身のi‐Podに録音していた曲を探し出して「こういうの、どう? 例えば、だけど」と渡辺さんや森川さんに差し出す。うんうんと二人は聞きあって、渡辺さんがポロンポロンとギターを爪弾いてみる。「それでね、こう問いかけてくる歌に対して遮るような感じでジャマーダが入る、バーンって」「じゃ、ちょっとやってみましょう」バイオリンの森川さんはその場で音を作りながら「これだとうまく入れないですねぇ」といっている。振付は決まっているのだから、カンテもギターもそのヌメロ(曲)の決まったところで決まった旋律を弾き、自分の持ち歌を歌うものかと思っていたが、阿部さんは違う。もっと作品のニュアンスにこだわり、共演者の持ち味を生かしてテアトロ公演に相応しい内容にしようという。確かに、タブラオのステージとは異なり、ハコの大きさだけを考えても、ふつうにヌメロを踊ったのでは観客の印象には残らない。ショウアップするわけではないけれど、自分のフラメンコの持ち味をどう効果的に見せるのかという点では、アイデアが要りそうだ。あっという間に九十分が経過し、時間切れ。七月中にはこの部分を決めてしまおうと話し、阿部さんは慌しく次の予定に出かけていった。台風は、夕方から夜にかけて関東に最も近付いてくるようだった。煮詰まった頭を抱えて、結局そのまま皆で近くのファミリーレストランに入ることにした。渡辺さんが「今日、家族がみんな出掛けていて、家におばあちゃん一人なんですよ」という。「心配じゃないの」「一人だから、なんか帰りにくい」などといいながら、駅に向かう。店に入ると今度は冷房が効きすぎて、寒いくらい。それぞれ、食事を注文したり、コーヒーを飲んで落ち着く。「うーん、どうしようかなぁ」と鶴さんがいう。フラメンコのヌメロを自分で構成し直して見せ場を作り、全体の辻褄を合わせるというのは本当に難しい作業なのだ。渡辺さんが「新人公演で、みんな目新しいこと、変わったことをやりたがるけれど、いろいろ試行錯誤してやっぱりオーソドックスなところに戻ってくる。それはやっぱり古いものというか、正統派のやり方にはそれなりの根拠とか、構成上の理由があるからだと思うよ」という。説得力があった。森川さんは「あとは引き算ですよ」という。具体的にどう音を作るのかという話になって、渡辺さんと森川さんはああしたらどうか、これはどうか、といろいろアイデアを出し始めた。そして一番大切なのは、鶴さんがどうやりたいかだ。テアトロ向けに作品を創り込まなければならないというのは十分分かっているが、それをやりすぎると自分が目指すフラメンコらしさから離れていくのではと彼女は危惧していた。もちろん、創り込むという作業はアルティスタの持つ引き出しの多さにも関わってくる。八月に入り、再び鶴さんと会う。新宿エル・フラメンコで行われる小島裕子さんのライブを一緒に観に行くためだ。新人公演まであと二週間あまり。「あの後どうなりました?」と訊ねると「賞をとりにいかない方向で、構成を決めることにしました」とスッキリとした面持ちでいい放った。鶴さんは考えながら「ちゃんと自分のカラーが出せていて、それが観ている人に伝わればいい。フラメンコだけれど、表現者でもあるわけでしょう。だから、自分が一番良いと思う表現で、観ている人に何か伝わればハッピーだと思うんです」という。「私」の持ち味とは何か。鶴さんもそのことと向き合ったのだろうか。以前、彼女になぜフラメンコを踊るのか、もっと教えることにも力を入れてプロを目指せば、とたきつけたことがある。私には、彼女の欲の無さが不思議だった。「この中途半端なところが、私の弱点なんでしょうけれど」と鶴さんは考えながら「でもねぇ、私の踊りを実際に見てくれて、心底『良かった』『ステキだった!』と感動してくれる人が何人かでもいたら、私はそれでもう十分幸せなんです。だから教えるのも、不特定多数の人に呼びかけるつもりは無くて、私の踊りを見て惚れてくれた人と一緒にレッスンを分かち合いたいんです。わがままだけれど」と言葉をつないだ。 鶴さんが新人公演への出場を決めた丁度その頃、私は島崎リノさんのソロ公演の取材でプリメラギター社代表の吉田正俊さんと初めて会い、名刺交換をした。プリメラギター社はフラメンコギターの販売で知られ、多くの日本人プロ・アマチュアが参加するフラメンコ・フェスティバル「ニューウェーブ」「プリメラの仲間達」のイベントを毎年、新宿の全労済ホールで行っていることでも有名な老舗である。吉田社長は、私がフリーペーパーでフラメンコの取材をしていると知ると、初対面ながらこういった。「記事が載ると、いろいろいう人もいるでしょう」専門紙の記者をしていた頃を思えば、掲載原稿について長々と電話をしてくる人やクレームのようなものが来ることはほとんどない。フリーペーパー「ファルーカ」にくるのは好意的な感想か、読者それぞれの体験談、こんなことが知りたいので特集してほしい、といったリクエストがほとんどである。いいえ、それほどでもないですよと答えると、吉田社長は「いいの、誰が何をいってきても、そんなこと気にしていたらダメ。あなたがこれがいいと思ったら、それを書けばいいんだよ」と笑顔でいった。プリメラギター社の吉田社長については、「ファルーカ」で私以外の担当者が一度「フラメンコ寄り道手帖」というページで取材をしているのだが、私自身はこの時、公演が始まるまでのわずかな時間にお話しただけである。けれど「ほかの人が何といおうと、あなたが面白いと思ったことを書け」といわれたのは、その時の私の心にズンと響き、残った。吉田社長はその後「まぁ僕みたいに好きなことだけやっていると、事務所の家賃払うのもやっとだけどさ」と笑いとばした。鶴さんは新人公演に出るにあたり、いろいろな人の意見を聞いている。けれど、その生き方の根幹では「自分が好きなもの、いいと思うもの、美しいもの」へのこだわりが絶対に揺るがない。そして自分が踊りたいソレアを、今の自分の技量と持てるものすべてを出して格闘する。本番まであとわずか。やっと決まった構成と振付で、鶴さんは踊り込みに入った。学生時代バスケ部に所属していた彼女は、サーキット方式を取り入れて自主練した。「パソ(ステップ、足の動き)とブエルタ(回転)と筋トレをセットにして、三セットやるんです。でも、これをやっただけで結構息が上がっちゃって。大分持久力はついてきたんですけどね」新人公演の三日前、神保町のタブラオ、オーレオーレでのステージに出演するというので、「ファルーカ」編集部の皆で観に行った。お盆にもかかわらず、出演者皆で集客に努力しただけあって店内はほぼ満席である。この日も猛暑で、陽が落ちた後もむっとする熱気が残り、おまけに地下一階の店内は、ステージ付近のエアコンが故障していた。「すみませんねぇ、エアコンが調子悪くて」と店長がすまなさそうにいう。早急に修理しないとこの暑さだからすぐ客足に影響しちゃうよと、いつもは冗談ばかりいっている店長の顔が真顔になった。ギターは渡辺さん、バイオリンの森川さんも入って、鶴さんはショーの一部では「ガロティン」を、二部では完成した「ソレア」を披露してくれた。導入部のバイオリンの旋律が素晴らしく美しい。そして、目の前で踊ってくれた鶴さんのソレアは迫力があり、マドリッド・スタイルの洗練された動きやリズムの遊び方が、観るものをハッとさせる空気を持ち合わせている。見終わった後、一緒に来ていたライター仲間が「鶴さん、カッコよかった! でも、ちょっとこれフラメンコ?って感じもしたね」と感想をもらした。そして八月十九日、第二十回新人公演の初日がやってきた。お昼過ぎから降り出した雨は、本来なら猛暑になるであろう気温をぐんと下げてくれたうえ、十八時の開演までには止んでくれた。新人公演は三日間続き、初日はソロ十九人、群舞三組が踊る。鶴さんの出演は四番目である。暗転板付きで始まる構成。森川さんが弾くのは、マイテ・マルティンの曲をアレンジした印象的な出だしだ。ライトが当たり、鶴さんの腕が大きく動くと、紫のベロアの衣装の袖口に施されたターコイズブルーの刺繍が鮮やかに映える。 最後まで悩んだ、一つ目の歌が終わりエスコビージャに入るところは、カザルスの「鳥の歌」をバイオリンが弾き盛り上げていくという構成で決着した。「鳥の歌」はカタルーニャ民謡で、平和への願いを込めて演奏されたことでも有名だ。身長百六十三センチの彼女は、上体を大きく使った振付で大舞台でも十分な存在感を醸し出していた。恐らく技術的には、もっと安定していて上手い人もたくさんいるのだろう。けれど、鶴さんにはただ上手く踊るのとは違う、観ているものをハッとさせる瞬間が何度かある。自分を繕わない。自然だけれど、流されない踊り。彼女のフラメンコに接するたびに、鶴さんって本当はどんな人なんだろうかと思い巡らす。もう何度も会って話しているのに、いつもそう思ってしまう。決して自信に満ちあふれている人ではない。けれど、踊りに表れるあの人を惹きつける力は何なのだろう。休憩時間になりロビーに出ると、案の定たくさんの友人に囲まれている鶴さんがいた。「思いのほか真っ暗な舞台に慣れていなくて、平衡感覚がなくなっちゃって。暗転の時からまっすぐ立っていられなかった」といっている。「あぁ、でも終わってよかった」と心底、ホッとした表情で鶴さんはいった。二日目はギターの渡辺イワオさんや、斎藤克己さんのスタジオで講師を務めている、仲良しの小林成江さんが出演する。前日に出番が終了して晴れ晴れしている鶴さんと一緒に開演前のロビーを歩いていると、丁度、今回の新人公演の選考委員でもある曽我辺靖子さんにばったりと会う。「先生、こんにちは。お久しぶりです」と鶴さんが頭を下げると、曽我辺さんは「そうそう、昨日のね、あなたの(曲の)導入部を見て、うわぁ、すごい、つるちゃん変わったわ、この後どうなるんだろうってすごくドキドキしながら見たのよ。とても良かったわ」と、その時の興奮そのままに褒めてくださった。「嬉しい! ありがとうございます」と鶴さんがいうと、曽我辺さんは「でも、後半疲れた? スタミナ切れした?」とズバリ仰った。「前半の盛り上がりがすごければすごいほど、観客は後半にそれ以上の期待をするのよ。その部分がちょっと、ね」と続けた。鶴さんは正直に「振付がやっと完成したのが、今週初めだったんです」と答えた。曽我辺さんは頷きながら「そう。普通は一カ月前に振付が固まって、残りの一カ月間で踊り込みに入るからね。その時間がなかったのが残念ね。ただ、バックのアーティストとよくコミュニケーションをとって創ったんだなぁというのは伝わってきたわよ。ただ、伴奏をお願いしますという感じじゃない。そういうのは、見ていてちゃんと分かるから」といってくださった。鶴さんは以前、曽我辺さんが主催したフラメンコ・ミュージカルのオーディションを受け、その時の舞台に出演したことがきっかけで知り合ったのだと教えてくれた。新人公演の結果は、最終日の日曜日の深夜に日本フラメンコ協会のホームページに発表される。鶴さんは今回、受賞には至らなかった。彼女はそんなことは全く気にせず、九月に入ると三週間の日程でスペインに旅立っていった。もちろん、マドリッドのフラメンコ・スタジオ、アモール・デ・ディオスでレッスンを受けるために。十一時から十七時まで、一時間の休憩を挟むだけで後はずっとスペイン人のレッスンを受けるのだ。鶴さんと知り合った頃、自由にスペインと日本を行き来し、フラメンコを学び続けている生き方が「うらやましいなぁ」といったら、鶴さんは「私だってふつうに結婚して、子ども生みたいですよ」と返した。そして時々ふと「こんな、キリギリスのような生き方をしていていいんでしょうかねぇ」と呟く。実家暮らしとはいえ、銀行員時代の貯蓄を使っているのだから、キリギリスではなくむしろアリなのではないかと思う。結婚していても、パートナーとの関係に変化は生じる。病気や死別、離婚。子どもがいれば、子育てのこと、経済的なこと、すべてが自分にのしかかってくる。四十歳を迎えて、そういうリスクが人生のどこかにひそんでいるのだということを、雑誌の記事などより遥かにリアリティをもって、私には感じられるようになった。「ふつうの結婚」とは、どんな結婚生活を指すのだろう。鶴さんはシングルだけれど、フラメンコを通じて実に多くの友人がいて、師や先輩にも恵まれ、毎年甥っ子たちと旅行も楽しんでいる。誰かとゆるやかに、そして確かにつながっている。そんな彼女がソレア(孤独)に託したのは「自分の孤独さを哀れんだり、憎んだりするけれど、その孤独は自分が選んだ生き方なのではないか」ということだった。ひとりであれば、ふとしたときに噛みしめる孤独感。そして、誰かといても、孤独と不安を感じてしまう私たち。(5につづく)
スペイン・セビージャの地で躍進を続ける萩原淳子さん。「好きなことだから」という言葉だけでは到達できない高みへと歩を進める彼女。その強靭な精神力と、自身への揺るぎない信頼の源を解き明かす。2012年夏には、二人三脚で歩んできた写真家アントニオ・ペレス氏と祝・入籍。 Flamenco × Life 3 異国で暮らす──萩原淳子 他の誰でもない、自分にしかできない生き方を探し出し、スペイン・セビージャの地で踊り続けている女性がいる。フラメンコ舞踊家の萩原淳子さんである。日本ですらプロの踊り手として生活していくのは容易ではないのに、異国の地、しかも深刻な経済危機に陥っているスペインでそれをやってのけるのは、半端でない覚悟がいる。萩原さんは一九七六年生まれ。早稲田大学のサークル活動でフラメンコを始め、三年間の会社員生活を経て二〇〇二年、二十六歳で渡西。以来、活動の拠点をセビージャにおき、セビージャ滞在は十年を越える。彼女の経歴(受賞歴)は、彼女が並外れた努力家であることを物語っている。他の芸術については分からないが、フラメンコを日本人(外国人)が踊る上で、そして本場スペインでのコンクールで入賞を勝ち取るという段にいたっては、並々ならぬ努力が求められる。渡西前の〇一年には、すでに日本フラメンコ協会主催新人公演において奨励賞を受賞。三年半に及ぶ私費留学の後、〇五年からは文化庁の新進芸術家海外派遣研修員として二年間国費留学。その後もセビージャに滞在し、グラナダのペーニャ「ラ・パーラ・フラメンカ」において〇七・〇八年ペーニャ公演最優秀フラメンコ舞踊家賞を受賞、〇八年の「ビエナル・デ・アルテ・フラメンコ・セビージャ」併行プログラムでは、日本人として初のソロ公演に出演するなど、本場スペインで着実にその地歩を固めてきた。セビージャで二年に一度開催される「ビエナル」は、国際的なフラメンコ・イベントで、世界的に有名なアルティスタ、偉大なマエストロはもちろん、新進の若手アルティスタの公演(実験的な試みも含め)も観ることができる、バイレ、ギター、カンテの総合的なフェスティバルである。一カ月の開催期間中にスペイン国内外から六万人の観客を集めるというから、一般のフラメンコ・ファン、数多くのアルティスタが注目する最も重要なイベントだといっていい。その、メーンプログラム(だけでも一〇年には五十四作品六十五公演が上演されている)ではないにせよ、本場スペインでの国際的なフェスティバルに際しソロ公演に出演したというのは、彼女の現地での活躍ぶりを物語るものである。十年を越える彼女のスペイン生活の中心にあるのは「踊ること」。会社員時代に貯めた資金で留学。ふつうの公務員家庭で育った彼女は、芸事において両親から経済的な支援を受けていない。そして今も、スペインでは外国人(日本人)としてずっと踊り続けている。一週間のスケジュールを聞くと、月曜日から金曜日までほとんど毎日踊る。午前中はスタジオを借りて自主練し、昼にスペイン人のレッスンを受講。夜の七時からまた二時間程度練習する。ペーニャ公演などに呼ばれ舞台に立つ日もあるが、およそフラメンコ以外のアルバイトなど入り込む余地がない。日本人留学生などに請われ、セビージャでもクラス・個人レッスンを行っているが、教えることの中心は日本に一時帰国したときのクルシージョ(短期講習会)である。スペインは物価が安い。それはフラメンコのレッスン代にも反映されている。来日公演でも多くの日本人ファンを魅了している、世界的なアルティスタのクラスレッスンが一時間わずか六ユーロ、個人レッスンをお願いしたとしても一時間七十ユーロだというのである。「スペインでフラメンコ講師の仕事を得るのは、そしてそれで生活していくレベルまでいくのは、とても大変。だって、多くの優れたアルティスタがスタジオを開いて、教えているのだから」と萩原さんはいう。公演やライブに出演する機会は得ても「教える」のは、スペインではそう簡単ではない。でも生活が大変でしょう、というと「暮らしていけないわけじゃないから」と笑う。ウェイトレスや日本人観光客相手のちょっとした仕事が無いわけではない。しかし、そうしたアルバイトでも「フラメンコ以外のことをやりだしたら、踊れなくなる」というのである。生活は安定していない。でも、私がやるべきはひたすらフラメンコと向き合うこと。その明快で、まっすぐな姿勢は、萩原さんと知り合ってから一度もブレたことはない。スペインで踊り続けるために、彼女はスペインの名立たるコンクールに挑戦し続ける。自分の実力を上げ、プロとして自立していくために、ひたすら練習し、自分の内なるアルテを掘り下げていく。コンクールに出場するには、自分の練習だけではなくギターやカンテといったバックアーティストとのエンサージョ(リハーサル)が欠かせない。そうした、エンサージョを含めたバックアーティストの本番出演料(予選と決勝の二回)は、もちろんエントリーする萩原さん自身が支払う。 幾度かの挑戦を経て、〇九年には第二十一回ウブリケ市主催全国フラメンコ芸術コンクールにて準優勝。一〇年には、第十六回カンテ・トーケ・バイレ全国コンクール「アニージャ・ラ・ヒターナ・デ・ロンダ」にて優勝するという快挙を成し遂げている。予選を勝ち抜いてきた、あの独特のリズム感(コンパス)を自在に操れるスペイン人舞踊手と渡り合って、上位入賞だけでも素晴らしいのに、ロンダ・コンクールにおいては外国人として初の、堂々一位を獲得している。彼女は決勝前日の合わせで、ギタリストのミゲル・ペレス氏にこんなことをいわれている。「ジュンコが分かっているように、コンクールの結果というのは政治的な絡みがある。だからもし優勝できないとしても、決勝に残ったことだけでジュンコと俺達にとってはもう『優勝』したと同じことなんだ。ジュンコにとってこれから障害になるのは踊りじゃなくて、外国人であるということだ。なぜなら、外国人に『優勝』を与えるということは『フラメンコはわれわれのものである』と考える彼ら自身の尊厳を自分たちで自ら覆すことになる。それは矛盾だからだ」と(layunko-flamenco.com 萩原淳子ブログより転載)。だが、彼女は優勝した。この時は賞金三千ユーロが支払われた。そして翌一一年八月に行われた第十四回全国アレグリアス舞踊コンクールでは、観客も出演者も納得のいかない結果に甘んじることになる。彼女にいわせると、コンクールに向けて作品を創りこむこと、大きなプレッシャーを感じながら本番で踊りきることには、ただ漫然と練習するのとは違う、大きな達成感や自らへの気付きがあるのだという。しかしながら、異国で自分と向き合う作業は孤独だ。日本人であることに対する差別もある。購入した衣装の直しは、日本と違って注文どおりに仕上がらない。コンクールに申し込んでも、なかなか予選の日時が決まらない。そのたびごとに、彼女は闘う。異国で自分の考えを伝え、人生を切り拓くために、できる最大限のことをするのである。悩んだり、愚痴ったりするのならば、そのエネルギーを問題解決のための行動に移そうというのが萩原さんの生き方である。萩原さんのブログを読むと、自信に満ちた、確固たる世界がある。しかし、取材を通して一対一で話す萩原さんはとても謙虚だ。「例えば、舞台を観に来てくれたお客さんに『素晴らしかったわ!』といわれて、日本では『もう全然ダメだったのよ、足もガタガタだったし』ってよくいいますが、スペインでは『ありがとう、嬉しいわ。またぜひ観に来てください』っていいます。『いいえ、私の踊りはまだまだです』なんていったら、スペイン人は言葉通りに受け止める。本人がダメだといっているのだから、良くなかったのね、と。なんだ、と失望されてしまう」スペインの土地で根を張って生きていくには、臆することなく人より一歩も二歩も前へ出て行かなくてはいけない。自らへの揺るぎ無い信頼感と、ストイックなまでの努力が、彼女をさらなる大きなステージへと羽ばたかせているのだと、会うたびに感服する。実は、萩原さんの日本での師であるAMI(鎌田厚子)さんも、およそ十五年間という長期にわたるスペイン滞在を経て、フラメンコ舞踊家としての礎を築いた方である。AMIさんは渡西中の九五年、スペインで最も権威と歴史のあるコルドバのフラメンコ・コンクールで日本人として初めて、プレミオ・ナショナル(エンカルナシオン・ロペス・ラ・アルヘンティニータ賞)を受賞するという快挙を成し遂げたことでも知られる。そして、スペイン舞踊振興マルワ財団が主催する、日本で恐らく唯一のフラメンコ・コンクール(二年に一度行われ、評価を点数化しその集計では偏差値方式を採用しているという点で)においても審査員を務めてこられた。AMIさんは、当時まだ早稲田の学生だった萩原さんを自身の公演に起用するなど、プロの舞踊家としての世界を萩原さんに垣間見せた人でもある。そしてAMIさん自身が師事したフラメンコ界の巨匠・岡田昌巳さんも、ピラール・ロペス率いる舞踊団で活躍したアントニオ・ガデスに魅せられ、戦後まだ日本人が自由に渡航できなかった時代に単身スペインに渡り、当時のスペイン国立バレエ団「マリア・ロサ舞踊団」にソリストとして在籍した実力の持ち主である。岡田さんは、小松原庸子さんや小島章司さんらと同世代で活躍されてきた踊り手で、九〇年には第一回河上鈴子スペイン舞踊賞を、一〇年には舞踊芸術賞を受賞されている。岡田さんと萩原さんの間に直接の師弟関係はないのだが「女ひとりスペインに生きる」という生き様が、昭和から平成の時代にかけて、岡田さん、AMIさん、萩原さんの三者を通じて、私には重なって見える。AMIさんは、かつての教え子である萩原さんについて「誰にでもできる選択ではない。そして、どんなに辛く大変なことがあろうと、彼女はちょっとのことで心が折れるような、そんな柔な精神の持ち主じゃないから」という。そして「彼女はスペインで生活し、フラメンコを深いところで理解しようとしているから、それが踊りに反映され、地元のスペイン人たちにも受け入れられているのでしょう」現在では、プロ・アマ問わず短期渡西を繰り返しながら本場のフラメンコを習いたいという人が増えている。スペインで有名なアルティスタのレッスンを受け「振付をとって」日本で踊るのである。会社や組織に縛られない働き方や、経済成長が頭打ちになったとはいえ、世界の中ではまだまだ豊かな日本の有り様が、そうした生き方を後押ししている。もちろん、仕事や日本での生活もあり、皆がスペインでの長期滞在に飛び込める訳ではない。AMIさんや萩原さんが長期滞在にこだわったのは、やはり「フラメンコをより深いところで理解したい」という、素朴な欲求からだと思う。以前、別の取材でお会いしたときに、岡田昌巳さんは昨今のフラメンコブームについてひと言、釘をさされた。「今の若い人たちは手っ取り早く習いたい、すぐに上手くなりたい、というのがあるわね。でも、芸事はそれでいけるわけがない」岡田さんは強い美意識を持ち「舞台に立って芸を披露する」ことには大変厳しい方である。そして、歯に衣着せぬ物言いは何とも耳に心地よく、近付きがたい存在でありながら人を惹きつける魅力に溢れている。「あなたもフラメンコのことが知りたいなら、クラシックやジャズ、いろんな音楽を聴いて、そして他の舞台をたくさん観なさい。芝居でも、バレエでも。そうやって芸術の土壌を自分の中につくっていきなさい」と。フラメンコのアルテを自分の中に醸成してゆく。それは「習う」という受身の姿勢だけでは、育たないものだ。萩原さんは〇七年から、日本に一時帰国した際に一カ月から一カ月半に及ぶスケジュールで、自身が主催するクルシージョ(短期講習会)を行っている。少人数制のため、一クラスの定員は五~八名。受講生の中には、他のフラメンコ教室に通っている人、セミプロとして研鑽を積んでいる人、既にプロとして活動している人など様々な人がいる。地方から旅費をかけて、萩原さんのレッスンを受けるために上京してくる人もいるのである。「スペインのコンクールで入賞を続けている舞踊家の短期レッスン」なんて、セミプロ以上のレベルの人が受講する、敷居の高いものだと思い込んでいたが、そんなことはない。クルシージョは、フラメンコの上達を願う人たちにとって、とても有効な手段である。それは、受講生一人ひとりが自らの課題を絞り込んで、能動的に参加するからである。日本ではまだまだ「先生に教えていただく」という「お教室文化」が根強く、一人の先生について習い始めると、なかなか他の先生のレッスンを受ける機会がない。複数の先生のレッスンを掛け持ちするなんて「まだそんなレベルじゃない」と習う方も思ってしまうし、先生によっては掛け持ちレッスンを快く思わない人もいる。スペインでは、マドリッドのアモール・デ・ディオスに代表されるように、さまざまなアルティスタのクラスが一つの建物内で開講され、複数の講師のレッスンを受けることはごく自然なことである。最も、習う側が自分の踊りの課題を整理できていないと、結局安くはない受講料を払って混乱するだけになってしまうのだが。けれど三、四年フラメンコを習ってみると、必ず「自分の中の課題」が見えてくる。その中で一番多いのが「いかにコンパス感を身につけるか」ということだろうと思う。そして、よりフラメンコらしく踊りたい、と。その答えの糸口を探して、レッスン生はタブラオ・ライブに足を運び、フラメンコのCDを聴き、オープンクラスやクルシージョに通うのだ。クルシージョに集う受講者は、自分の課題を携えてレッスンに臨むため、舞踊のキャリアの差はあれど全員等しく横並びでレッスンを受ける。良くも悪くも、そのレッスン限りの人間関係だから、上下関係も不必要な気遣いも生じない。受講者全員の真剣なまなざしは唯一点、講師である萩原さんに注がれる。レベルの異なる受講者全員を受け止めて、一人ひとりに気付きや成果があるようにレッスンを行うには、相当内容が練られていなければならない。彼女のレッスンは厳しく、内容も濃いが、受講者それぞれの学びに対する意欲を上手く刺激し「できないことが恥ずかしい」とは思わせない、不思議な迫力を持っている。自分の持っている知識をフル稼働し、全身を使ってフラメンコのエッセンスを伝えようとする。どうしたら、参加者により伝わるだろうかと試行錯誤する。休日などは朝から夕方まで、ほとんど休憩なしでクラスが進んでいくが、どのクラスでも萩原さんの情熱が途切れることはない。その中のひとつ、「マルティネーテ」という無伴奏の曲の振付を通して、コンパスと舞踊の基礎を学ぶクラスがあった。マルティネーテはギター伴奏が入らないことが多く、その場合、カンテのみで歌い上げられる。そして、そのカンテで踊るためには、踊り手自身がコンパスを刻むわけである。萩原さんは説明する。「このクラスでは、特にコンパスについて深く学んでもらうために、踊る際に踊り手自身がコンパスを入れます。だから、どこから始めても構わないし、どんなテンポでも良い」後で聞いたのだが、マルティネーテでもギターやカンテがコンパスを入れる場合もあるし、あるいはコンパスを入れずに踊ることも出来るという。この時のレッスンでは、カンテのみのマルティネーテのCDを流し「好きなところで入ってパルマを叩いてみて」という。そして、レッスン中のスタジオ内の電気を消したのである。暗がりの中で、歌い手の声だけが響いてゆく。どこから入ればよいのか、いや、この場合は「私はどこから入るのか」ということを、自分自身に問いかける。この時は六人ほどが参加していたが、自信を持ってパルマを叩き始めた人は一人もいなかった。三つ目の歌が終わると萩原さんはスタジオの灯りをつけCDを止めた。「はい、皆さん、何が起こりましたか。○○さん、どうして途中で止めちゃったの?」受講者の一人が、ここで入るのが正しいのか分からなくなってしまってと答えると、萩原さんは「どこで入ってもいいんですよ。ここで入ったから間違い、というのはありません。皆さんが決めていいんです」という。そして、一つ目の歌を聴いて、二つ目の歌から入ると入りやすいかもしれないですね、と付け加えた。「パルマは一度叩き始めたら、途中で止めてはダメです。自信なさそうに周りを気にしながら打つのもダメ。遅れてしまいます」ただ振付を教えるのではなく、フラメンコを踊る上で必要な、本当にたくさんの「なぜ」が問いかけられる。萩原さん自身はどうやってコンパス感を養ったのだろうか。「トロンボに習ったことが、コンパス感を身につける上では大きかった。彼は文字通り、コンパスのかたまりの様な人、コンパスのスペシャリストなんです」トロンボは、実に多くの日本人バイレが彼に師事し、影響を受けていることでもその名が知られている。生まれつき足が不自由だったが、踊りの才能を見出されファルーコに師事し、マリオ・マヤにも舞踊性や舞台制作について学んでいる。そして「自らの体験から、麻薬やアルコール中毒の問題についても関心を寄せて取り組んでいるアルティスタ」だと、萩原さん自身のサイトで公開したトロンボへのオリジナル・インタビューで明かしている。コンパスは習っただけでは身につかない。「実践を重ねないとダメなんです。それもフィエスタ(祭り)のような、その場の雰囲気や盛り上がりで何をやるのかが決まるような、即興性の強い本番で」萩原さんがスペインでプロとして舞台に立つようになったきっかけは、クリスティーナ・ヘエレン財団フラメンコ芸術学校に在籍していた頃、師であるカルメン・レデスマに「今日、踊れる?」と声をかけられ、出演したテルトゥリア・フラメンカ・バディア。フラメンコ関係者がよく足を運ぶこのライブは、主催のオーナーが週一回程度開催し、毎回一流のアルティスタたちが呼ばれていた。「丁度、国費留学が終わる頃でした。一年半くらい、毎週踊りました。ギャラもちゃんと出ましたよ。毎回ほとんど即興ライブに近くて、かなりコンパス感は磨かれました。私はここで、とても教えられた。その時上手くできなくても、皆、長い目で見てくれて、育ててもらいました」そして、その実践を続けていくことが大切なのだという。フラメンコは基本的に「個」の踊りだ。成熟した「個」が集って、ギターやカンテと協調し合いながら音楽を奏でてゆく。それは舞台だけのことではなく、日々のレッスンにおいてもそうだ。自分の課題を携え、あるいは理想を内包しレッスンに挑む女性たちは美しい。毎回のレッスンが真剣勝負。何度も顔を合わせているうちに、強い連帯感が生まれてくる。一曲、振付を学び終える頃にはもう戦友のようなものだ。年齢も、職業も、既婚か未婚かも、踊りの上手下手関係なく、ただフラメンコが好きという「同志」としてのつながりが、そこにはある。自分を磨きながら、同じように独り頑張っている人たちとどこかでつながっている。フラメンコが、多くの女性たちを魅了する理由のひとつだと思う。 西の歌を聴け フラメンコは十二拍を一単位とするコンパスという独特のリズムにのってサパテアードを打ち鳴らし、パソ(ステップ)を踏む。ギターやカンテ(歌)に合わせて、自らが音(靴音)を打ち鳴らすのだから、踊りというよりは「音楽」であると思う。バレエなどの舞踊の基礎があっても、簡単には踊りこなせない、高い技術が要求されるゆえんである。振付の要である「タメ」と「キレ」を実現させるにも、高い身体能力が求められる。素人が習うにはなかなかどうして、かなり難しい踊りである。以上のような理由から、習い始めのレッスン生はどうしても振付を丸ごと暗記することから入ってしまう。ふつうのレッスンではギターの生伴奏が入ることは珍しいから、普段はCDから流れてくる曲に合わせて「一・二・三」とコンパスを数えながら、振付を覚えようとするのである。とにかく、コンパスを追いかけて振付を再現することに必死になるから、曲の途中で入る歌など聴いていない(!)ことがある。いや、聴いてはいるけれども心には落ちていないことが多い。だから、本番前の練習になってギターとカンテの生伴奏が入ったりすると、これまでの調子が狂って踊れなくなる(コンパスが分からなくなる)という事態が続出するのである。コンパスを「数えて」振付を覚え、踊っている場合に初心者が陥りがちな罠である。もちろん、振付は覚えなくては踊れない。しかし、覚えたからといってフラメンコが踊れるか、というとそうではないのである。フラメンコの曲種には、例えば「アレグリアス」という代表的な曲にしてもコンパスや曲の構成は決まっていても、実にさまざまな歌があるのも要因の一つである。名カンタオーラ(歌い手)にして名バイラオーラ(踊り手)でもある今枝友加さんは、以前取材でお会いしたときに踊る人は歌も勉強したらいいのに、といった。「みんな、踊り上手ですよね。でも、足とかすごく練習していて上手なのに、生伴奏で歌やギターが入ると『分からなくなる』っていう人が結構いる。私には、それはあり得ない」と話してくれた。CDから流れてくる、毎回決まった音楽に合わせて練習することに多くの人の耳が慣れているからである。今枝さんは、美しい歌や旋律に耳が反応して、踊りだしたいという衝動が生まれてくる、という。そのとおりである。五年近くもフラメンコを習って、コンパスが全く分かっていない私は、何度か萩原淳子さんが主宰する少人数制のクルシージョ(短期講習会)に参加したことがある。萩原さんはソレアのCDをかけ、比較的コンパスが分かりやすい箇所を選んで「ウノ・ドス・トレス・クアトロ・シンコ……」と拍を数えながら、次にソレアのコンパスの要となる③⑥⑧⑩だけをギターの節にのせて「……トレース……セイス……」と口頭で教えてくれる。「じゃぁ、皆さんでパルマ(手拍子)を打ってみましょう。③⑥⑧⑩⑫の部分だけゴルペ(足の裏全体で床を打つ)して」といわれ、参加者全員で立って輪を囲む。だが、他の皆さんに遅れまいとすると余計焦って混乱してしまう。自分ひとりが混乱するのならまだいいのだが、間違った音を出すと周りで正確なリズムを刻んでいる人に大迷惑をかけてしまう。私が全くパルマを打てていないのを見てとると、萩原さんは「恒川さんは十二拍のうち③の部分だけつかまえて。パルマは打たなくていいです。混乱するから」といってくれた。そして「数えてはダメ。数えるとどうしても遅れる。よく曲を聴いて。ほら、このギターのジャララランっていううねりをつかまえて」③の拍だけをつかまえれば良い、となって途端に私の気はラクになった。周りの人はきちんと十二拍のコンパスを打てているが、そんなことを気にしている場合ではない。私は流れてくるソレアの曲に集中した。すると、これまでに何度も教えられたように、確かにギターの旋律は一つのうねりを作りながら流れていった。ギターの音だけに耳をそばだてる。うねりは長くなったり、短くなったりしながらも、萩原さんがいうように「波が押し寄せてはひいていく」ように、規則正しく十二拍でまわっていく。あっ、と③拍が分かった瞬間、今まで伴奏としてしか聞いていなかったギターの調べが、急に立体的に感じられた。萩原さんのクルシージョを受講して最も印象的だったことは、もっと耳から入ってくる音(情報)に集中せよ、ということだった。ギターが奏でるコンパスが膨らむ瞬間、音の調子が変わる瞬間、歌いだしの決まった歌詞が流れる瞬間、そしてサパテアード(靴音)の高速のリズムが変化する瞬間。フラメンコのバイレは、その衣装と振付の華やかさからどうしても視覚にとらわれがちである。パソを覚えるときも、目で足の動きを追ってしまう。彼女はエスコビージャ(サパテアード中心の部分)を教えるときにまず「目を閉じて、音だけ聴いてリズムをつかんで」という。視覚に頼っていると、必ず遅れが生じるからだ。 萩原さんのブログを読むと、彼女がフラメンコを踊る上でいかに歌を大切にしているかが分かる。「私の踊りの歌振りの部分に『振付』というものは存在しない」と彼女は書いている。なぜなら、実際に舞台上で聴いているフラメンコの歌に彼女の身体は反応するため、あらかじめ振付を決めておいても、それは意味をなさなくなってしまうからだ、と。萩原さんに最初に「カンテを聴いて踊りなさい」と教えたのは、日本での恩師であるAMI(鎌田厚子)さんだという。けれど、萩原さん自身「自分が技術的に『上手』に踊れるようになればなるほど、反比例して自分が求めるフラメンコというものから遠ざかっているのではないか」と二十代の頃の葛藤を書き記している。そして、スペインでもう長いこと一流のアルティスタ、マエストロのレッスンを受けながらも常に真似ではない、自分自身の踊りとは何か、を自問する。「私自身の心がまっさらになっている時、聴いているものに心から感じた時に出る何か、それが私の踊りなんじゃないかな……」そして「ある人の踊りが素晴らしいのだとすれば、それは、その人がその人自身であることを貫いた時、それが誰かのマネではない、唯一無二という点で素晴らしいのだ」(layunko-flamenco.com 萩原淳子ブログより転載)と続けている。私が、私自身であることを貫いた時。分野こそ違え、ものを書くということにいたっても「私にしか書けないもの」とは何だろうと、私は自分に問いかける。ブログでの萩原さんは饒舌だ。異国でフラメンコを学び続けることの葛藤、苦労、舞台でのまさに一喜一憂が素直な言葉で綴られている。萩原さんを取材し始めて三年近くになるが、いつも、東京で会う萩原さんはピンと背すじを伸ばして隙が無く、私の繰り出す質問に慎重に言葉を選びながら答えてくれる。心を揺さぶられた出来事や涙を流したことも、リアルタイムでブログに記すことで、彼女の中では過去に流れていく。そうやって何かを積み上げ、積み上げ、確かな意志のもとにある彼女と、私は毎回対面してきた。彼女はなぜ、自分を追い込むようにスペインでのコンクールに挑戦し続けるのだろうか。タイトルの獲得は踊り手の評価を上げる。注目され、舞台の仕事も増えるだろう。しかし、プロのギタリスト、歌い手に支払う本番出演料、スタジオ代など経済的な負担も決して軽くはないはずである。二〇一一年八月に行われたスペイン・カディスでの第十四回全国アレグリアス舞踊コンクールの決勝に進出し、従来なら存在しない「四位」と「賞金千ユーロ」さらに「最優秀振付賞」を受賞した彼女は、コンクールについてあらためてブログでこう振り返っている。「結局コンクールってなんなんだろう。コンクールの『結果』がその人の人生を変えることもある。人は『結果』のみでその出場者を判断することもある。裏事情が表に出ることもあれば出ないこともある。だからコンクールには絶対出ない!という人もいる。なるほど、それも一つの選択だ。でも私にとって重要なことは、そのコンクールのために準備する『過程』。その『過程』を知る人は少ない。だからこそ重要なのだ。多くの人や審査員に踊りを見てもらい、順位をつけられたり意見をもらうのもよい、という考えもあるかもしれないが(私もこれまでそう思っていた)でもそれは場合による。踊り手の本当の実力を見極められるのはプロフェッショナルなギタリスト、歌い手。そして自分より実力のあるプロフェッショルな踊り手だと私は思う。そのような人達の前で踊れるのであればそれは貴重な経験だ。そしてその貴重な経験は、コンクールに出ると決心し、いろいろなものと闘いながら準備してきた人間にのみ与えられる」(layunko-flamenco.com 萩原淳子ブログより転載)。私はこの一文を読んで、合点がいった。彼女がこの十年間積み重ねてきたことを考えたら、もう十分、日本に戻って日本を拠点にして教授活動を始めてもいいはずだし、他の踊り手とは異なるそのアルテの形成を、多くの人たちが認めている。萩原さんは一〇年の春に取材した際「スペインで踊る機会があるうちは、スペインで踊り続けたい」といった。私が「でもいろいろ大変でしょう。つらいと思うことはないの?」と訊ねると「好きなことだから」と躊躇することなく答える。「何がラクとか、厳しいとか、考えたことないです。もうこれで行く、と決めているので」フラメンコはアンダルシアの文化で、ヒターノ(ジプシー)のもの。だから、そのことを深く理解したいという。萩原さんはスペインで、ペーニャと呼ばれるフラメンコ愛好家の集まりにもよく呼ばれ、踊る。アンダルシアで三百以上あるというペーニャは、会員が会費を払ってそれぞれのペーニャを運営しており、建物を借りたり、買い取ったりして各自のペーニャ会場を有している。自分たちで公演を企画し、アルティスタを雇ってフラメンコを楽しむペーニャもあるというから、観客の層の厚さ、文化としての成熟度を実感する。日本の場合、フラメンコのステージを見せるタブラオやスペインレストランはあるが、出演者が全く集客努力をしなくてよいという店はわずかだ。ソロ公演でも企画しようものなら、舞台の準備からチケット販売まで全てアルティスタがやらなければならない(事務所や大きな舞踊団に所属している場合を除いて)。チケットが売れなければ、もちろん赤字は踊り手なり、出演者が負担する。スペインではギターソロ、カンテソロの公演も多々あるが、日本ではまだバイレ(踊り)がフラメンコの華である。そのほうが観客受けもする。スペインへの留学経験を持つ三十代の踊り手さんはこういった。「日本ではステージを企画しようと思うと、踊り手が何から何までやらなければいけない。その負担は大きく、なかなか踊ることだけに集中できない」と。 私は「あるべき姿を求めて闘っている人は美しい」といった萩原さんの言葉を、折にふれて反すうする。現実は、なかなかうまくいかないことばかりだ。愚痴ったり、諦めたり、不満を持つばかりでは、現状は変えられない。一方、頑張りすぎて心身を壊してしまうことだってある。思いがけない人との出会いが、人生の方向転換を促すこともあるだろう。努力したからといって、それが良い結果に結びつくとは限らない。精神的、体力的、経済的な限界を感じたとき、人は自分が属する現実と折り合う着地点を探す。萩原さんはアルティスタであるけれど、その生き方はトップアスリートのそれに似ている。世界レベルを目指すあらゆる競技の選手たちは、自国に留まらず海外に飛び出してトレーニングを積むのが定石となった。それは、その競技の本場ということもあるし、国際試合の雰囲気に慣れるためということもあるだろう。けれど、彼らが海外生活で手に入れる最大のものは、自己を磨く絶対的な「強さ」だと思う。それは、慣れ親しんだ環境の中ではなく、自らを孤独と、他者との競い合いの中にあえて放り込み、鍛錬することによってしか獲得できない。萩原さんの中にも「限界」はない。むしろ、困難があるほど彼女は奮い立つ。その生き方そのものが、フラメンコと彼女をより深く結び付けているようである。スペインのフラメンコ・コンクールは、大抵夜の九時過ぎから始まる。会場が野外ということも珍しくない。プログラムは、日本のように予定通りには進まないし、控え室が屋外のテントの中ということもある。客席にはそうそうたるプロの踊り手が姿を見せていることだってある。異国で、想像を超えるプレッシャーの中に身をおき、自分と闘おうとする萩原さんのことを想う。クルシージョのレッスンで、ただ床の上を歩くということでも、彼女は折にふれて「身体の軸を意識して、上下にエネルギーを引っ張って。そして、足元でしっかり床をとらえる。この、上下に引っ張り合う力がないと、とても緊張している舞台の上では、身体がふらふらして負けてしまいますよ」とアドバイスする。 よく、ステージに出てきたときの歩き方を見ただけで、その踊り手の技量が分かるというけれど、まさにそういうことなんだなぁと実感する。大きな舞台で、たくさんの観客がいる中で、緊張しないわけがない。けれど、日々レッスンを積み重ね、フラメンコを踊りこなすための身体の使い方を物理的に意識し、組み立てることで彼女はそのプレッシャーを跳ね返し、自分のアルテを舞台上で解き放てるよう訓練しているのだ。萩原さんに「今後の人生の展望を教えてください」といったら、しばらく考えた後「そうですねぇ、結婚したいですねぇ」と拍子抜けするような、そして至極まっとうな答えが返ってきた。舞台人として生きる以上、人並みの幸せは求めないというのは、少なくとも「フラメンコ」という芸にはそぐわないし、もはやそういう時代でもないのだろう。スペインでは、ファルーコとその孫ファルキートに代表されるように、ファミリア(家族、一族)によってその芸が支えられ、成熟し、受け継がれていく例が少なくない。家族は、アルティスタにとってとても大切な存在なのだ。舞台に立つ萩原さんのアルテそのままに、そして時には穏やかな日常の素顔を写真に撮り続けている人がいる。スペイン人写真家のアントニオ・ペレスさんである。ステージに向かう後ろ姿、楽屋でアイラインを引いている様など、彼女のこと、フラメンコのことをよく知ってシャッターを切り続けているのだろう。ペレスさんが見ている萩原さんは、私がとらえた彼女とはまた違っているのかもしれない。フラメンコに魅せられ、強く関わりながらも様々な事情でその探求の道を閉ざしてしまう人を少なからず見てきた。趣味というにはあまりに重く、経済的に自立できるプロの数は限られている。ただ、どんなかたちであれ、人生の一時期、フラメンコという文化に出会い、夢中になれたことはその人にとって大いなる幸せだ。そして、その火種は下火になることはあっても消えずにくすぶり続け、長い人生の中でまたどこかで燃え上がる。だからこそ、ひたすらフラメンコへのまっすぐな想いとともに歩き続ける萩原さんの姿には、希望がある。 (4につづく)