【フラメンコライフ】第3回 異国で暮らす――萩原淳子

2016.09.20

スペイン・セビージャの地で躍進を続ける萩原淳子さん。「好きなことだから」という言葉だけでは到達できない高みへと歩を進める彼女。その強靭な精神力と、自身への揺るぎない信頼の源を解き明かす。2012年夏には、二人三脚で歩んできた写真家アントニオ・ペレス氏と祝・入籍。

Flamenco × Life 3

  異国で暮らす──萩原淳子

他の誰でもない、自分にしかできない生き方を探し出し、スペイン・セビージャの地で踊り続けている女性がいる。
フラメンコ舞踊家の萩原淳子さんである。
日本ですらプロの踊り手として生活していくのは容易ではないのに、異国の地、しかも深刻な経済危機に陥っているスペインでそれをやってのけるのは、半端でない覚悟がいる。
萩原さんは一九七六年生まれ。早稲田大学のサークル活動でフラメンコを始め、三年間の会社員生活を経て二〇〇二年、二十六歳で渡西。以来、活動の拠点をセビージャにおき、セビージャ滞在は十年を越える。
彼女の経歴(受賞歴)は、彼女が並外れた努力家であることを物語っている。
他の芸術については分からないが、フラメンコを日本人(外国人)が踊る上で、そして本場スペインでのコンクールで入賞を勝ち取るという段にいたっては、並々ならぬ努力が求められる。
渡西前の〇一年には、すでに日本フラメンコ協会主催新人公演において奨励賞を受賞。三年半に及ぶ私費留学の後、〇五年からは文化庁の新進芸術家海外派遣研修員として二年間国費留学。
その後もセビージャに滞在し、グラナダのペーニャ「ラ・パーラ・フラメンカ」において〇七・〇八年ペーニャ公演最優秀フラメンコ舞踊家賞を受賞、〇八年の「ビエナル・デ・アルテ・フラメンコ・セビージャ」併行プログラムでは、日本人として初のソロ公演に出演するなど、本場スペインで着実にその地歩を固めてきた。
セビージャで二年に一度開催される「ビエナル」は、国際的なフラメンコ・イベントで、世界的に有名なアルティスタ、偉大なマエストロはもちろん、新進の若手アルティスタの公演(実験的な試みも含め)も観ることができる、バイレ、ギター、カンテの総合的なフェスティバルである。
一カ月の開催期間中にスペイン国内外から六万人の観客を集めるというから、一般のフラメンコ・ファン、数多くのアルティスタが注目する最も重要なイベントだといっていい。
その、メーンプログラム(だけでも一〇年には五十四作品六十五公演が上演されている)ではないにせよ、本場スペインでの国際的なフェスティバルに際しソロ公演に出演したというのは、彼女の現地での活躍ぶりを物語るものである。
十年を越える彼女のスペイン生活の中心にあるのは「踊ること」。
会社員時代に貯めた資金で留学。ふつうの公務員家庭で育った彼女は、芸事において両親から経済的な支援を受けていない。そして今も、スペインでは外国人(日本人)としてずっと踊り続けている。
一週間のスケジュールを聞くと、月曜日から金曜日までほとんど毎日踊る。午前中はスタジオを借りて自主練し、昼にスペイン人のレッスンを受講。夜の七時からまた二時間程度練習する。ペーニャ公演などに呼ばれ舞台に立つ日もあるが、およそフラメンコ以外のアルバイトなど入り込む余地がない。
日本人留学生などに請われ、セビージャでもクラス・個人レッスンを行っているが、教えることの中心は日本に一時帰国したときのクルシージョ(短期講習会)である。
スペインは物価が安い。それはフラメンコのレッスン代にも反映されている。
来日公演でも多くの日本人ファンを魅了している、世界的なアルティスタのクラスレッスンが一時間わずか六ユーロ、個人レッスンをお願いしたとしても一時間七十ユーロだというのである。
「スペインでフラメンコ講師の仕事を得るのは、そしてそれで生活していくレベルまでいくのは、とても大変。だって、多くの優れたアルティスタがスタジオを開いて、教えているのだから」と萩原さんはいう。
公演やライブに出演する機会は得ても「教える」のは、スペインではそう簡単ではない。
でも生活が大変でしょう、というと
「暮らしていけないわけじゃないから」と笑う。
ウェイトレスや日本人観光客相手のちょっとした仕事が無いわけではない。しかし、そうしたアルバイトでも
「フラメンコ以外のことをやりだしたら、踊れなくなる」というのである。
生活は安定していない。でも、私がやるべきはひたすらフラメンコと向き合うこと。その明快で、まっすぐな姿勢は、萩原さんと知り合ってから一度もブレたことはない。
スペインで踊り続けるために、彼女はスペインの名立たるコンクールに挑戦し続ける。
自分の実力を上げ、プロとして自立していくために、ひたすら練習し、自分の内なるアルテを掘り下げていく。
コンクールに出場するには、自分の練習だけではなくギターやカンテといったバックアーティストとのエンサージョ(リハーサル)が欠かせない。そうした、エンサージョを含めたバックアーティストの本番出演料(予選と決勝の二回)は、もちろんエントリーする萩原さん自身が支払う。

幾度かの挑戦を経て、〇九年には第二十一回ウブリケ市主催全国フラメンコ芸術コンクールにて準優勝。一〇年には、第十六回カンテ・トーケ・バイレ全国コンクール「アニージャ・ラ・ヒターナ・デ・ロンダ」にて優勝するという快挙を成し遂げている。
予選を勝ち抜いてきた、あの独特のリズム感(コンパス)を自在に操れるスペイン人舞踊手と渡り合って、上位入賞だけでも素晴らしいのに、ロンダ・コンクールにおいては外国人として初の、堂々一位を獲得している。
彼女は決勝前日の合わせで、ギタリストのミゲル・ペレス氏にこんなことをいわれている。
「ジュンコが分かっているように、コンクールの結果というのは政治的な絡みがある。だからもし優勝できないとしても、決勝に残ったことだけでジュンコと俺達にとってはもう『優勝』したと同じことなんだ。ジュンコにとってこれから障害になるのは踊りじゃなくて、外国人であるということだ。なぜなら、外国人に『優勝』を与えるということは『フラメンコはわれわれのものである』と考える彼ら自身の尊厳を自分たちで自ら覆すことになる。それは矛盾だからだ」と(layunko-flamenco.com 萩原淳子ブログより転載)。
だが、彼女は優勝した。この時は賞金三千ユーロが支払われた。
そして翌一一年八月に行われた第十四回全国アレグリアス舞踊コンクールでは、観客も出演者も納得のいかない結果に甘んじることになる。
彼女にいわせると、コンクールに向けて作品を創りこむこと、大きなプレッシャーを感じながら本番で踊りきることには、ただ漫然と練習するのとは違う、大きな達成感や自らへの気付きがあるのだという。
しかしながら、異国で自分と向き合う作業は孤独だ。
日本人であることに対する差別もある。購入した衣装の直しは、日本と違って注文どおりに仕上がらない。コンクールに申し込んでも、なかなか予選の日時が決まらない。そのたびごとに、彼女は闘う。異国で自分の考えを伝え、人生を切り拓くために、できる最大限のことをするのである。
悩んだり、愚痴ったりするのならば、そのエネルギーを問題解決のための行動に移そうというのが萩原さんの生き方である。
萩原さんのブログを読むと、自信に満ちた、確固たる世界がある。しかし、取材を通して一対一で話す萩原さんはとても謙虚だ。
「例えば、舞台を観に来てくれたお客さんに『素晴らしかったわ!』といわれて、日本では『もう全然ダメだったのよ、足もガタガタだったし』ってよくいいますが、スペインでは『ありがとう、嬉しいわ。またぜひ観に来てください』っていいます。
『いいえ、私の踊りはまだまだです』なんていったら、スペイン人は言葉通りに受け止める。本人がダメだといっているのだから、良くなかったのね、と。なんだ、と失望されてしまう」
スペインの土地で根を張って生きていくには、臆することなく人より一歩も二歩も前へ出て行かなくてはいけない。
自らへの揺るぎ無い信頼感と、ストイックなまでの努力が、彼女をさらなる大きなステージへと羽ばたかせているのだと、会うたびに感服する。
実は、萩原さんの日本での師であるAMI(鎌田厚子)さんも、およそ十五年間という長期にわたるスペイン滞在を経て、フラメンコ舞踊家としての礎を築いた方である。
AMIさんは渡西中の九五年、スペインで最も権威と歴史のあるコルドバのフラメンコ・コンクールで日本人として初めて、プレミオ・ナショナル(エンカルナシオン・ロペス・ラ・アルヘンティニータ賞)を受賞するという快挙を成し遂げたことでも知られる。
そして、スペイン舞踊振興マルワ財団が主催する、日本で恐らく唯一のフラメンコ・コンクール(二年に一度行われ、評価を点数化しその集計では偏差値方式を採用しているという点で)においても審査員を務めてこられた。
AMIさんは、当時まだ早稲田の学生だった萩原さんを自身の公演に起用するなど、プロの舞踊家としての世界を萩原さんに垣間見せた人でもある。
そしてAMIさん自身が師事したフラメンコ界の巨匠・岡田昌巳さんも、ピラール・ロペス率いる舞踊団で活躍したアントニオ・ガデスに魅せられ、戦後まだ日本人が自由に渡航できなかった時代に単身スペインに渡り、当時のスペイン国立バレエ団「マリア・ロサ舞踊団」にソリストとして在籍した実力の持ち主である。
岡田さんは、小松原庸子さんや小島章司さんらと同世代で活躍されてきた踊り手で、九〇年には第一回河上鈴子スペイン舞踊賞を、一〇年には舞踊芸術賞を受賞されている。
岡田さんと萩原さんの間に直接の師弟関係はないのだが「女ひとりスペインに生きる」という生き様が、昭和から平成の時代にかけて、岡田さん、AMIさん、萩原さんの三者を通じて、私には重なって見える。
AMIさんは、かつての教え子である萩原さんについて
「誰にでもできる選択ではない。そして、どんなに辛く大変なことがあろうと、彼女はちょっとのことで心が折れるような、そんな柔な精神の持ち主じゃないから」という。そして
「彼女はスペインで生活し、フラメンコを深いところで理解しようとしているから、それが踊りに反映され、地元のスペイン人たちにも受け入れられているのでしょう」
現在では、プロ・アマ問わず短期渡西を繰り返しながら本場のフラメンコを習いたいという人が増えている。
スペインで有名なアルティスタのレッスンを受け「振付をとって」日本で踊るのである。会社や組織に縛られない働き方や、経済成長が頭打ちになったとはいえ、世界の中ではまだまだ豊かな日本の有り様が、そうした生き方を後押ししている。
もちろん、仕事や日本での生活もあり、皆がスペインでの長期滞在に飛び込める訳ではない。AMIさんや萩原さんが長期滞在にこだわったのは、やはり
「フラメンコをより深いところで理解したい」という、素朴な欲求からだと思う。
以前、別の取材でお会いしたときに、岡田昌巳さんは昨今のフラメンコブームについてひと言、釘をさされた。
「今の若い人たちは手っ取り早く習いたい、すぐに上手くなりたい、というのがあるわね。でも、芸事はそれでいけるわけがない」
岡田さんは強い美意識を持ち「舞台に立って芸を披露する」ことには大変厳しい方である。そして、歯に衣着せぬ物言いは何とも耳に心地よく、近付きがたい存在でありながら人を惹きつける魅力に溢れている。
「あなたもフラメンコのことが知りたいなら、クラシックやジャズ、いろんな音楽を聴いて、そして他の舞台をたくさん観なさい。芝居でも、バレエでも。そうやって芸術の土壌を自分の中につくっていきなさい」と。
フラメンコのアルテを自分の中に醸成してゆく。
それは「習う」という受身の姿勢だけでは、育たないものだ。
萩原さんは〇七年から、日本に一時帰国した際に一カ月から一カ月半に及ぶスケジュールで、自身が主催するクルシージョ(短期講習会)を行っている。
少人数制のため、一クラスの定員は五~八名。受講生の中には、他のフラメンコ教室に通っている人、セミプロとして研鑽を積んでいる人、既にプロとして活動している人など様々な人がいる。地方から旅費をかけて、萩原さんのレッスンを受けるために上京してくる人もいるのである。
「スペインのコンクールで入賞を続けている舞踊家の短期レッスン」なんて、セミプロ以上のレベルの人が受講する、敷居の高いものだと思い込んでいたが、そんなことはない。
クルシージョは、フラメンコの上達を願う人たちにとって、とても有効な手段である。それは、受講生一人ひとりが自らの課題を絞り込んで、能動的に参加するからである。
日本ではまだまだ「先生に教えていただく」という「お教室文化」が根強く、一人の先生について習い始めると、なかなか他の先生のレッスンを受ける機会がない。
複数の先生のレッスンを掛け持ちするなんて「まだそんなレベルじゃない」と習う方も思ってしまうし、先生によっては掛け持ちレッスンを快く思わない人もいる。
スペインでは、マドリッドのアモール・デ・ディオスに代表されるように、さまざまなアルティスタのクラスが一つの建物内で開講され、複数の講師のレッスンを受けることはごく自然なことである。
最も、習う側が自分の踊りの課題を整理できていないと、結局安くはない受講料を払って混乱するだけになってしまうのだが。
けれど三、四年フラメンコを習ってみると、必ず「自分の中の課題」が見えてくる。その中で一番多いのが「いかにコンパス感を身につけるか」ということだろうと思う。そして、よりフラメンコらしく踊りたい、と。
その答えの糸口を探して、レッスン生はタブラオ・ライブに足を運び、フラメンコのCDを聴き、オープンクラスやクルシージョに通うのだ。
クルシージョに集う受講者は、自分の課題を携えてレッスンに臨むため、舞踊のキャリアの差はあれど全員等しく横並びでレッスンを受ける。
良くも悪くも、そのレッスン限りの人間関係だから、上下関係も不必要な気遣いも生じない。受講者全員の真剣なまなざしは唯一点、講師である萩原さんに注がれる。
レベルの異なる受講者全員を受け止めて、一人ひとりに気付きや成果があるようにレッスンを行うには、相当内容が練られていなければならない。
彼女のレッスンは厳しく、内容も濃いが、受講者それぞれの学びに対する意欲を上手く刺激し「できないことが恥ずかしい」とは思わせない、不思議な迫力を持っている。
自分の持っている知識をフル稼働し、全身を使ってフラメンコのエッセンスを伝えようとする。
どうしたら、参加者により伝わるだろうかと試行錯誤する。
休日などは朝から夕方まで、ほとんど休憩なしでクラスが進んでいくが、どのクラスでも萩原さんの情熱が途切れることはない。
その中のひとつ、「マルティネーテ」という無伴奏の曲の振付を通して、コンパスと舞踊の基礎を学ぶクラスがあった。
マルティネーテはギター伴奏が入らないことが多く、その場合、カンテのみで歌い上げられる。そして、そのカンテで踊るためには、踊り手自身がコンパスを刻むわけである。
萩原さんは説明する。
「このクラスでは、特にコンパスについて深く学んでもらうために、踊る際に踊り手自身がコンパスを入れます。だから、どこから始めても構わないし、どんなテンポでも良い」
後で聞いたのだが、マルティネーテでもギターやカンテがコンパスを入れる場合もあるし、あるいはコンパスを入れずに踊ることも出来るという。
この時のレッスンでは、カンテのみのマルティネーテのCDを流し
「好きなところで入ってパルマを叩いてみて」という。
そして、レッスン中のスタジオ内の電気を消したのである。
暗がりの中で、歌い手の声だけが響いてゆく。どこから入ればよいのか、いや、この場合は「私はどこから入るのか」ということを、自分自身に問いかける。この時は六人ほどが参加していたが、自信を持ってパルマを叩き始めた人は一人もいなかった。
三つ目の歌が終わると萩原さんはスタジオの灯りをつけCDを止めた。
「はい、皆さん、何が起こりましたか。○○さん、どうして途中で止めちゃったの?」
受講者の一人が、ここで入るのが正しいのか分からなくなってしまってと答えると、萩原さんは
「どこで入ってもいいんですよ。ここで入ったから間違い、というのはありません。皆さんが決めていいんです」という。
そして、一つ目の歌を聴いて、二つ目の歌から入ると入りやすいかもしれないですね、と付け加えた。
「パルマは一度叩き始めたら、途中で止めてはダメです。自信なさそうに周りを気にしながら打つのもダメ。遅れてしまいます」
ただ振付を教えるのではなく、フラメンコを踊る上で必要な、本当にたくさんの「なぜ」が問いかけられる。
萩原さん自身はどうやってコンパス感を養ったのだろうか。
「トロンボに習ったことが、コンパス感を身につける上では大きかった。彼は文字通り、コンパスのかたまりの様な人、コンパスのスペシャリストなんです」
トロンボは、実に多くの日本人バイレが彼に師事し、影響を受けていることでもその名が知られている。生まれつき足が不自由だったが、踊りの才能を見出されファルーコに師事し、マリオ・マヤにも舞踊性や舞台制作について学んでいる。そして
「自らの体験から、麻薬やアルコール中毒の問題についても関心を寄せて取り組んでいるアルティスタ」だと、萩原さん自身のサイトで公開したトロンボへのオリジナル・インタビューで明かしている。
コンパスは習っただけでは身につかない。
「実践を重ねないとダメなんです。それもフィエスタ(祭り)のような、その場の雰囲気や盛り上がりで何をやるのかが決まるような、即興性の強い本番で」
萩原さんがスペインでプロとして舞台に立つようになったきっかけは、クリスティーナ・ヘエレン財団フラメンコ芸術学校に在籍していた頃、師であるカルメン・レデスマに「今日、踊れる?」と声をかけられ、出演したテルトゥリア・フラメンカ・バディア。
フラメンコ関係者がよく足を運ぶこのライブは、主催のオーナーが週一回程度開催し、毎回一流のアルティスタたちが呼ばれていた。
「丁度、国費留学が終わる頃でした。一年半くらい、毎週踊りました。ギャラもちゃんと出ましたよ。毎回ほとんど即興ライブに近くて、かなりコンパス感は磨かれました。
私はここで、とても教えられた。その時上手くできなくても、皆、長い目で見てくれて、育ててもらいました」
そして、その実践を続けていくことが大切なのだという。
フラメンコは基本的に「個」の踊りだ。成熟した「個」が集って、ギターやカンテと協調し合いながら音楽を奏でてゆく。それは舞台だけのことではなく、日々のレッスンにおいてもそうだ。
自分の課題を携え、あるいは理想を内包しレッスンに挑む女性たちは美しい。毎回のレッスンが真剣勝負。何度も顔を合わせているうちに、強い連帯感が生まれてくる。一曲、振付を学び終える頃にはもう戦友のようなものだ。
年齢も、職業も、既婚か未婚かも、踊りの上手下手関係なく、ただフラメンコが好きという「同志」としてのつながりが、そこにはある。
自分を磨きながら、同じように独り頑張っている人たちとどこかでつながっている。フラメンコが、多くの女性たちを魅了する理由のひとつだと思う。

  西の歌を聴け

フラメンコは十二拍を一単位とするコンパスという独特のリズムにのってサパテアードを打ち鳴らし、パソ(ステップ)を踏む。ギターやカンテ(歌)に合わせて、自らが音(靴音)を打ち鳴らすのだから、踊りというよりは「音楽」であると思う。バレエなどの舞踊の基礎があっても、簡単には踊りこなせない、高い技術が要求されるゆえんである。
振付の要である「タメ」と「キレ」を実現させるにも、高い身体能力が求められる。素人が習うにはなかなかどうして、かなり難しい踊りである。
以上のような理由から、習い始めのレッスン生はどうしても振付を丸ごと暗記することから入ってしまう。ふつうのレッスンではギターの生伴奏が入ることは珍しいから、普段はCDから流れてくる曲に合わせて「一・二・三」とコンパスを数えながら、振付を覚えようとするのである。
とにかく、コンパスを追いかけて振付を再現することに必死になるから、曲の途中で入る歌など聴いていない(!)ことがある。いや、聴いてはいるけれども心には落ちていないことが多い。だから、本番前の練習になってギターとカンテの生伴奏が入ったりすると、これまでの調子が狂って踊れなくなる(コンパスが分からなくなる)という事態が続出するのである。
コンパスを「数えて」振付を覚え、踊っている場合に初心者が陥りがちな罠である。
もちろん、振付は覚えなくては踊れない。しかし、覚えたからといってフラメンコが踊れるか、というとそうではないのである。フラメンコの曲種には、例えば「アレグリアス」という代表的な曲にしてもコンパスや曲の構成は決まっていても、実にさまざまな歌があるのも要因の一つである。
名カンタオーラ(歌い手)にして名バイラオーラ(踊り手)でもある今枝友加さんは、以前取材でお会いしたときに踊る人は歌も勉強したらいいのに、といった。
「みんな、踊り上手ですよね。でも、足とかすごく練習していて上手なのに、生伴奏で歌やギターが入ると『分からなくなる』っていう人が結構いる。私には、それはあり得ない」と話してくれた。
CDから流れてくる、毎回決まった音楽に合わせて練習することに多くの人の耳が慣れているからである。今枝さんは、美しい歌や旋律に耳が反応して、踊りだしたいという衝動が生まれてくる、という。そのとおりである。
五年近くもフラメンコを習って、コンパスが全く分かっていない私は、何度か萩原淳子さんが主宰する少人数制のクルシージョ(短期講習会)に参加したことがある。
萩原さんはソレアのCDをかけ、比較的コンパスが分かりやすい箇所を選んで
「ウノ・ドス・トレス・クアトロ・シンコ……」と拍を数えながら、次にソレアのコンパスの要となる③⑥⑧⑩だけをギターの節にのせて
「……トレース……セイス……」と口頭で教えてくれる。
「じゃぁ、皆さんでパルマ(手拍子)を打ってみましょう。③⑥⑧⑩⑫の部分だけゴルペ(足の裏全体で床を打つ)して」といわれ、参加者全員で立って輪を囲む。
だが、他の皆さんに遅れまいとすると余計焦って混乱してしまう。自分ひとりが混乱するのならまだいいのだが、間違った音を出すと周りで正確なリズムを刻んでいる人に大迷惑をかけてしまう。
私が全くパルマを打てていないのを見てとると、萩原さんは
「恒川さんは十二拍のうち③の部分だけつかまえて。パルマは打たなくていいです。混乱するから」といってくれた。そして
「数えてはダメ。数えるとどうしても遅れる。よく曲を聴いて。ほら、このギターのジャララランっていううねりをつかまえて」
③の拍だけをつかまえれば良い、となって途端に私の気はラクになった。周りの人はきちんと十二拍のコンパスを打てているが、そんなことを気にしている場合ではない。私は流れてくるソレアの曲に集中した。
すると、これまでに何度も教えられたように、確かにギターの旋律は一つのうねりを作りながら流れていった。ギターの音だけに耳をそばだてる。うねりは長くなったり、短くなったりしながらも、萩原さんがいうように「波が押し寄せてはひいていく」ように、規則正しく十二拍でまわっていく。
あっ、と③拍が分かった瞬間、今まで伴奏としてしか聞いていなかったギターの調べが、急に立体的に感じられた。
萩原さんのクルシージョを受講して最も印象的だったことは、もっと耳から入ってくる音(情報)に集中せよ、ということだった。ギターが奏でるコンパスが膨らむ瞬間、音の調子が変わる瞬間、歌いだしの決まった歌詞が流れる瞬間、そしてサパテアード(靴音)の高速のリズムが変化する瞬間。
フラメンコのバイレは、その衣装と振付の華やかさからどうしても視覚にとらわれがちである。パソを覚えるときも、目で足の動きを追ってしまう。彼女はエスコビージャ(サパテアード中心の部分)を教えるときにまず
「目を閉じて、音だけ聴いてリズムをつかんで」という。
視覚に頼っていると、必ず遅れが生じるからだ。

萩原さんのブログを読むと、彼女がフラメンコを踊る上でいかに歌を大切にしているかが分かる。
「私の踊りの歌振りの部分に『振付』というものは存在しない」と彼女は書いている。
なぜなら、実際に舞台上で聴いているフラメンコの歌に彼女の身体は反応するため、あらかじめ振付を決めておいても、それは意味をなさなくなってしまうからだ、と。
萩原さんに最初に
「カンテを聴いて踊りなさい」と教えたのは、日本での恩師であるAMI(鎌田厚子)さんだという。
けれど、萩原さん自身
「自分が技術的に『上手』に踊れるようになればなるほど、反比例して自分が求めるフラメンコというものから遠ざかっているのではないか」と二十代の頃の葛藤を書き記している。
そして、スペインでもう長いこと一流のアルティスタ、マエストロのレッスンを受けながらも常に真似ではない、自分自身の踊りとは何か、を自問する。
「私自身の心がまっさらになっている時、聴いているものに心から感じた時に出る何か、それが私の踊りなんじゃないかな……」
そして
「ある人の踊りが素晴らしいのだとすれば、それは、その人がその人自身であることを貫いた時、それが誰かのマネではない、唯一無二という点で素晴らしいのだ」(layunko-flamenco.com 萩原淳子ブログより転載)と続けている。
私が、私自身であることを貫いた時。
分野こそ違え、ものを書くということにいたっても「私にしか書けないもの」とは何だろうと、私は自分に問いかける。
ブログでの萩原さんは饒舌だ。異国でフラメンコを学び続けることの葛藤、苦労、舞台でのまさに一喜一憂が素直な言葉で綴られている。
萩原さんを取材し始めて三年近くになるが、いつも、東京で会う萩原さんはピンと背すじを伸ばして隙が無く、私の繰り出す質問に慎重に言葉を選びながら答えてくれる。
心を揺さぶられた出来事や涙を流したことも、リアルタイムでブログに記すことで、彼女の中では過去に流れていく。そうやって何かを積み上げ、積み上げ、確かな意志のもとにある彼女と、私は毎回対面してきた。
彼女はなぜ、自分を追い込むようにスペインでのコンクールに挑戦し続けるのだろうか。
タイトルの獲得は踊り手の評価を上げる。注目され、舞台の仕事も増えるだろう。しかし、プロのギタリスト、歌い手に支払う本番出演料、スタジオ代など経済的な負担も決して軽くはないはずである。
二〇一一年八月に行われたスペイン・カディスでの第十四回全国アレグリアス舞踊コンクールの決勝に進出し、従来なら存在しない「四位」と「賞金千ユーロ」さらに「最優秀振付賞」を受賞した彼女は、コンクールについてあらためてブログでこう振り返っている。
「結局コンクールってなんなんだろう。コンクールの『結果』がその人の人生を変えることもある。人は『結果』のみでその出場者を判断することもある。裏事情が表に出ることもあれば出ないこともある。だからコンクールには絶対出ない!という人もいる。なるほど、それも一つの選択だ。でも私にとって重要なことは、そのコンクールのために準備する『過程』。その『過程』を知る人は少ない。だからこそ重要なのだ。
多くの人や審査員に踊りを見てもらい、順位をつけられたり意見をもらうのもよい、という考えもあるかもしれないが(私もこれまでそう思っていた)でもそれは場合による。踊り手の本当の実力を見極められるのはプロフェッショナルなギタリスト、歌い手。そして自分より実力のあるプロフェッショルな踊り手だと私は思う。そのような人達の前で踊れるのであればそれは貴重な経験だ。そしてその貴重な経験は、コンクールに出ると決心し、いろいろなものと闘いながら準備してきた人間にのみ与えられる」(layunko-flamenco.com 萩原淳子ブログより転載)。
私はこの一文を読んで、合点がいった。
彼女がこの十年間積み重ねてきたことを考えたら、もう十分、日本に戻って日本を拠点にして教授活動を始めてもいいはずだし、他の踊り手とは異なるそのアルテの形成を、多くの人たちが認めている。
萩原さんは一〇年の春に取材した際
「スペインで踊る機会があるうちは、スペインで踊り続けたい」といった。
私が
「でもいろいろ大変でしょう。つらいと思うことはないの?」と訊ねると
「好きなことだから」と躊躇することなく答える。
「何がラクとか、厳しいとか、考えたことないです。もうこれで行く、と決めているので」
フラメンコはアンダルシアの文化で、ヒターノ(ジプシー)のもの。だから、そのことを深く理解したいという。
萩原さんはスペインで、ペーニャと呼ばれるフラメンコ愛好家の集まりにもよく呼ばれ、踊る。
アンダルシアで三百以上あるというペーニャは、会員が会費を払ってそれぞれのペーニャを運営しており、建物を借りたり、買い取ったりして各自のペーニャ会場を有している。自分たちで公演を企画し、アルティスタを雇ってフラメンコを楽しむペーニャもあるというから、観客の層の厚さ、文化としての成熟度を実感する。
日本の場合、フラメンコのステージを見せるタブラオやスペインレストランはあるが、出演者が全く集客努力をしなくてよいという店はわずかだ。ソロ公演でも企画しようものなら、舞台の準備からチケット販売まで全てアルティスタがやらなければならない(事務所や大きな舞踊団に所属している場合を除いて)。チケットが売れなければ、もちろん赤字は踊り手なり、出演者が負担する。
スペインではギターソロ、カンテソロの公演も多々あるが、日本ではまだバイレ(踊り)がフラメンコの華である。そのほうが観客受けもする。スペインへの留学経験を持つ三十代の踊り手さんはこういった。
「日本ではステージを企画しようと思うと、踊り手が何から何までやらなければいけない。その負担は大きく、なかなか踊ることだけに集中できない」と。

私は
「あるべき姿を求めて闘っている人は美しい」といった萩原さんの言葉を、折にふれて反すうする。
現実は、なかなかうまくいかないことばかりだ。
愚痴ったり、諦めたり、不満を持つばかりでは、現状は変えられない。一方、頑張りすぎて心身を壊してしまうことだってある。思いがけない人との出会いが、人生の方向転換を促すこともあるだろう。
努力したからといって、それが良い結果に結びつくとは限らない。精神的、体力的、経済的な限界を感じたとき、人は自分が属する現実と折り合う着地点を探す。
萩原さんはアルティスタであるけれど、その生き方はトップアスリートのそれに似ている。
世界レベルを目指すあらゆる競技の選手たちは、自国に留まらず海外に飛び出してトレーニングを積むのが定石となった。それは、その競技の本場ということもあるし、国際試合の雰囲気に慣れるためということもあるだろう。
けれど、彼らが海外生活で手に入れる最大のものは、自己を磨く絶対的な「強さ」だと思う。
それは、慣れ親しんだ環境の中ではなく、自らを孤独と、他者との競い合いの中にあえて放り込み、鍛錬することによってしか獲得できない。
萩原さんの中にも「限界」はない。むしろ、困難があるほど彼女は奮い立つ。その生き方そのものが、フラメンコと彼女をより深く結び付けているようである。
スペインのフラメンコ・コンクールは、大抵夜の九時過ぎから始まる。会場が野外ということも珍しくない。プログラムは、日本のように予定通りには進まないし、控え室が屋外のテントの中ということもある。
客席にはそうそうたるプロの踊り手が姿を見せていることだってある。異国で、想像を超えるプレッシャーの中に身をおき、自分と闘おうとする萩原さんのことを想う。
クルシージョのレッスンで、ただ床の上を歩くということでも、彼女は折にふれて
「身体の軸を意識して、上下にエネルギーを引っ張って。そして、足元でしっかり床をとらえる。この、上下に引っ張り合う力がないと、とても緊張している舞台の上では、身体がふらふらして負けてしまいますよ」とアドバイスする。

よく、ステージに出てきたときの歩き方を見ただけで、その踊り手の技量が分かるというけれど、まさにそういうことなんだなぁと実感する。
大きな舞台で、たくさんの観客がいる中で、緊張しないわけがない。けれど、日々レッスンを積み重ね、フラメンコを踊りこなすための身体の使い方を物理的に意識し、組み立てることで彼女はそのプレッシャーを跳ね返し、自分のアルテを舞台上で解き放てるよう訓練しているのだ。
萩原さんに
「今後の人生の展望を教えてください」といったら、しばらく考えた後
「そうですねぇ、結婚したいですねぇ」と拍子抜けするような、そして至極まっとうな答えが返ってきた。
舞台人として生きる以上、人並みの幸せは求めないというのは、少なくとも「フラメンコ」という芸にはそぐわないし、もはやそういう時代でもないのだろう。
スペインでは、ファルーコとその孫ファルキートに代表されるように、ファミリア(家族、一族)によってその芸が支えられ、成熟し、受け継がれていく例が少なくない。家族は、アルティスタにとってとても大切な存在なのだ。
舞台に立つ萩原さんのアルテそのままに、そして時には穏やかな日常の素顔を写真に撮り続けている人がいる。
スペイン人写真家のアントニオ・ペレスさんである。ステージに向かう後ろ姿、楽屋でアイラインを引いている様など、彼女のこと、フラメンコのことをよく知ってシャッターを切り続けているのだろう。
ペレスさんが見ている萩原さんは、私がとらえた彼女とはまた違っているのかもしれない。
フラメンコに魅せられ、強く関わりながらも様々な事情でその探求の道を閉ざしてしまう人を少なからず見てきた。趣味というにはあまりに重く、経済的に自立できるプロの数は限られている。
ただ、どんなかたちであれ、人生の一時期、フラメンコという文化に出会い、夢中になれたことはその人にとって大いなる幸せだ。そして、その火種は下火になることはあっても消えずにくすぶり続け、長い人生の中でまたどこかで燃え上がる。
だからこそ、ひたすらフラメンコへのまっすぐな想いとともに歩き続ける萩原さんの姿には、希望がある。

4につづく