【フラメンコライフ】第4回 ナチュラルでしなやか――鶴幸子

2016.09.20

37歳で銀行を辞めスペインに短期留学。母の介護と早すぎる死を経て、その後もほぼ毎年、短期渡西を繰り返しながら自分のペースでフラメンコと向き合い続けている鶴幸子さん。私たち30代、40代女性の等身大の、リアルなフラメンコ人生がそこにある。

Flamenco × Life 4

  ナチュラルでしなやか

           ――鶴幸

萩原さんやリノさんを取材してきて、鶴さんのこともぜひ書かせてほしいとお願いしたら、踊り手・鶴幸子さんは開口一番
「萩原さんやリノさんみたいなすごい人たちと一緒に並べないでくださいよ」といいながらも
「私で役に立てることがあれば、何でも協力しますよ」といってくれた。
銀行を辞めスペインに短期留学し、母の介護と早すぎる死を経て、その後もほぼ毎年、短期渡西を繰り返しながら独自のペースでフラメンコと向き合い続けている鶴さんの生き方には、自他ともに「プロ」を認識し活躍する島崎リノさんや萩原淳子さんとは全く異なる魅力がある。
私たち三十代、四十代女性の等身大の、リアルなフラメンコ人生がそこにある。
鶴さんとの出会いは二〇〇七年、センスの良いマーメイドファルダがきっかけだった。
当時、練習用のファルダといえばAラインのフレアースカートが定番だったのだが、取材で横浜にある箆津弘順さんのスタジオを訪れた際、練習生の何人かがウェストからお尻にかけてのラインがぴったりしていて、小ぶりなボランテ(フリル)が裾にかけて幾重にもあしらわれているマーメイドラインのオシャレなファルダを着用していたのである。
パッと目にも洗練されていたそのデザインは、いかにも「スペイン人の稽古着」という雰囲気で、カッコよかった。そのファルダをスペインから購入していたのが、鶴さんだったのである。
ファルダだけでなく、鶴さんの舞台衣装はスペイン・マドリッドで自分の希望を伝えてオーダーしているだけあって、デザインも、生地の選択も、色合いも、すべてモダンで粋なものばかり。
フリーペーパー「ファルーカ」でそのマーメイドラインのファルダを紹介したところ、思ったとおり大反響だった。
衣装のセンスも抜群な鶴さんに
「みんな、こういう衣装が着たいと思っているのよ。もっと大々的に紹介したら受けるのでは?」
といってみたが、彼女は、衣装とはその人の希望や体型に合わせて注文生産するものだから、誰が着るのかも分からない衣装を既製品として仕入れるやり方には抵抗があると、乗り気にはならなかった。
現在、既製品の衣装はたくさん販売されている。数ある衣装の中から自分に似合うもの、自分が着たいものを購入するのが一般的だろう。
けれど、衣装も振付と同じ。
「可愛い!」「ステキ!」と一目惚れして購入しても、実際に踊る曲種とイメージが合わなかったり、踊りにくかったり、改善しなければ自分にしっくり合わないこともある。
振付も、教えられたとおりに踊っているうちは感動を呼ばない。けれど、自分なりの思い入れや感情が踊りに反映されたとき、プロであろうとなかろうと、観ている人はその表情や動きにハッとして引き込まれる。それがフラメンコの醍醐味だと思う。

鶴さんは一九六六年生まれ。私立雙葉中学・高校を経て、東京女子大に進学。在学中は体育会系バスケットボール部に所属し、主将も務めている。
フラメンコとの出会いは、大学卒業後旧日本興業銀行に就職してから。
カルチャースクールからスタートし、日本では花岡陽子さんや箆津弘順さんらに師事。会社員の彼女にとって、フラメンコは夢中になれる楽しい趣味の一つであったに違いないが、旧興銀が〇二年、富士銀行、第一勧銀と対等合併し、みずほ銀行になると同時にフラメンコは人生の主役に躍り出てくることになる。
それまで興銀の本部付きで仕事をしていた鶴さんは、みずほコーポレート銀行に移り、当時の多くの行員が経験したように意に沿わない異動の対象となる。
新しい職場で奮闘したが、今までの「打てば響く」ような職場とは仕事の進め方も士気も全く違っていた。
疲れきった三十七歳の彼女の気持ちは、ぐんぐんフラメンコへと傾倒していった。
バブル期の銀行に就職し十四年間勤め上げた彼女には、十分な蓄えもあった。
「フラメンコをやるためにスペインに留学します」
そういって、〇三年銀行を辞めた。
日本で通っていたスタジオでは代理教師を務めるほどだったが、「プロの踊り手になろう」という固い決意が、鶴さんの中にあった訳ではない。
それは、その後渡西を繰り返し、都内の様々なタブラオでステージに立つようになり、請われてグループレッスンを引き受けるようになった今でも
「踊り手・鶴幸子はプロであるか」という根幹は、彼女の中では揺らいでいるように見える。
ひとつだけいえるのは、彼女は「プロになるために」フラメンコを続けてきた訳ではないということだろう。
今でも、フラメンコのライブやレッスン以外に普通のアルバイトをしながら、川崎の実家に父親と二人で暮らしている。
彼女に
「本格的に教えることはしないの?」と訊ねると
「せっかくスペインでレッスンを受けてきたんだから『トゥルコに教わった、この曲のこういう振り、ね、カッコいいでしょ!』っていう感動を、フラメンコを踊る人たちと共有したいんです。
初心者を対象に、毎年セビジャーナスを一から教えるようなレッスンにはあまり魅力を感じないし、それは私がやりたいことじゃないんです」といった。
セビジャーナスとは、フラメンコを習い始めるときに最初に習得する三拍子系の有名な踊りで、アンダルシア地方セビージャの春祭りで踊られることで知られる。
今しかできないこと、好きなことをやろうと晴れてスペインに渡った彼女は、語学学校に籍を置きながらフラメンコ修行の道に入った。
だが、渡西して五カ月あまりで急きょ日本に呼び戻される。三十年来リューマチを患っていた実家の母の状態が悪化し、ほとんど寝たきり状態になったというのである。
もともと、母の状態はあまり良くなかった。渡西前にも主治医から
「よくこんな時にスペインに行くね」といわれた。
すでにその五年前から階段の昇り降りや入浴、着替えの介助が必要な状態で、それは同居する鶴さんの役割でもあった。
銀行を退職する二年前からは、朝、激しい痛みのため自力では起き上がれない母のためにパンと飲み物を用意してベッドまで運び、その簡単な朝食を食べさせてから痛み止めの薬を飲ませるのが、鶴さんの出勤前の日課だった。
母親に介助の手が必要なことは百も承知だった。
「半年間だけ、スペインに行かせてもらおうと思ったんです。もしこの先、母の状態がもっと悪くなったら、それこそ行けなくなると思って」
スペインから帰国すると、夜中トイレに行こうとした母は転んで脊髄を損傷し、首から下が全く動かない状態になっていた。
妹も弟も結婚し、家を出ている。動けるのは長女である自分しかいない。
病院から自宅に戻った母には、二十四時間の介護が必要になった。明け方の午前三時から九時まで、父に代わってもらって仮眠をとる以外は、ずっと母親に付き添う生活が始まった。
ほぼ寝たきりの母は床ずれがひどくなり、近所の病院に入院することになった。ある朝、鶴さんは病室を訪れた。
「朝から、何だかいうことがかみ合っていないなぁと思っていたら、突然血圧が下がり始めたんです。一度帰宅したら、病院からすぐ連絡がきて『輸血していいか』って。急いで病院に戻ったら、呼吸も早くなってすごく苦しそうにしていて。ずっとベッドの横で付き添っていたんですが、あ、呼吸が静かになったな、落ち着いたのかなって思ったら、もう心臓は止まっていました」
〇四年六月のことだった。
「リューマチの薬って、とても強いんです。母はそれを三十年近く飲んでいたので、心臓にも大きな負担をかけていたんでしょうね」
「鶴幸子(つるさちこ)」というのは、彼女の本名ではない。フラメンコを踊るときに使っている芸名である。
由来は、彼女がスペインで最も影響を受けた踊り手ラ・トゥルコからと、亡くなった母の名前・幸子(ゆきこ)からとったのだという。
「妹が生まれた時から母はずっとリューマチだったので、それが私にとっても家族にとっても、生活の中に溶け込んでいました。ケンカしながらお風呂に入れてあげて『もう、何で私がこんなこと』っていうと、母も負けじと『あなたが早く結婚しないからよ。じゃぁ、結婚してこの家を出て行けばいいでしょ』って。
母の友人たちには、とても支えられました。皆さん『病気が辛いだろうに、どうしてあんなふうにいつも前向きに、明るくいられるのかしら』って。母は刺繍や編み物などいろんなことをやっていて、友だちもよく家に招いていました」
ずっと痛みを抱えて生きていた母が、一番辛かったんだろうな。どうして、もっと優しくしてあげなかったんだろう。そう思ったのは、本当に最期のときだった。
母の死後三カ月経って、鶴さんはもう一度スペインに渡る。マドリッドのアモール・デ・ディオスを中心にレッスンを受け、およそ三カ月滞在する。
アモール・デ・ディオスとは五三年に設立され、多くの世界的なアルティスタを輩出した有名スタジオである。

今でもバイレ(踊り)をはじめ、ギターやカンテ、スペイン舞踊など様々なクラスが開講されている。受講生数は千人近いともいわれ、講師陣のみならず受講生にも有名アルティスタが混ざっているというから、まさにモデルノ(現代フラメンコ)の聖地ともいえる。
ここでは、それぞれ掲示板などに貼り出されたクラススケジュールを確認し、自分で受けたいレッスンを選び、直接クラスに向かう。有名なマエストロのクラスでは、プロとして活躍しているアルティスタが受講生として参加していることもあるが、クラス主催者が受講希望者をわざわざ「レベル分け」するようなことはしない。
レッスンについてくることが出来なければ、壁際に追いやられるだけ。
ここでは誰が踊れていて、誰が踊れていなかろうが、そんなことは誰も気にしない。講師は、自分のアルテを惜しみなく伝えるだけである。
鶴さんはここでラ・トゥルコをはじめ、マリア・フンカルやペパ・モリーナ等に師事する。
その後、日本に帰国してからもほぼ毎年、一、二カ月の単位でスペインに向かう。そのせいだろうか、鶴さんの踊りはいつ見ても観客を飽きさせず、ステージでハッとする瞬間が必ずあるのだ。

その鶴さんが、日本フラメンコ協会が主催する新人公演に出るという話を聞いたのは、一一年の年が明けてすぐだった。
「今年、新人公演に出ようと思って」
鶴さんはまだ迷っているようだった。新人公演は八月のお盆過ぎに行われるが、エントリーするならもう準備に入らなければならないという。
年齢的にもキャリア的にも、彼女は「新人」ではない。
新人公演に申し込むのに別に年齢制限はないが、鶴さんがよくタブラオで共演している斎藤克己さんは
「君はもう新人じゃないんだから、賞をとりにいくのでなければ出場はマイナスだ」といったそうだ。
斎藤克己さんは西日暮里のスペイン・レストラン、アルハムブラのステージを中心に踊っている、数少ない日本人バイラオール(男性舞踊手)である。スマートでエレガントなその踊りは、長年のスペイン滞在と斎藤さん自身が青年時代から培ってきた美意識によるものなのだろう。
斎藤さんは舞踊活動だけでなく、執筆、演出、振付など幅広い分野でその才能を発揮してこられた方である。
少年の頃から当たり前のように日舞の稽古に通い、社交ダンスを習得し、美大に進学してからは在学中にスペイン・サラマンカ大学に留学。そこでフラメンコに魅せられ、八〇年マドリッドのサルスエラ劇場でプロの踊り手としてデビューしている。
大病を患うまでおよそ十年間にわたりスペインの舞踊団と契約しヨーロッパ各地の公演に参加してきたという、異色の経歴の持ち主である。
斎藤さんは恐らく、踊り手としても人生の上でも「これから」という時に死と向き合うような病を経験したせいか、どこか達観したところがある。自らステージに立ちながら、後進の発掘にも熱心である。
フラメンコの理想は「究極の個」。師弟関係にあっても、自分とは異なる「個」を、その個性がより輝くように育てるという土壌は、日本ではまだ途上であるように思う。
斎藤さんは「これは」と思う踊り手がいれば、自分のステージに誘う。ライブのときも、必ずその若手の踊り手を褒め、舞台にのせる。
斎藤さんのアドバイスを耳に留め、鶴さんは新人公演に向けて「観客の印象に残る作品」「自分らしいフラメンコを踊る」ことを目標に動き始めた。
鶴さんは、六年前の〇五年にも一度新人公演に出場している。
そして、さらにさかのぼること十三年前の九八年の同公演では、「花岡陽子スパニッシュダンスカンパニー」のメンバーとして群舞部門に出演し(この時は本名で出場している)、奨励賞には及ばなかったが見事努力賞を獲得している。
新人公演は三日間にわたって合計九十組近い出場者がそれぞれギターや歌、踊りを披露する。出場者はもちろんだが、三日間通しで鑑賞する方もかなり体力がいる。
知名度のある人、タブラオでよく踊っている人、スタジオのフラメンコ友だち(フラ友)、それまで全く知らなかった人、本当にたくさんの人が出演するので、何年か続けて新人公演を観ていると、その九十組の中から奨励賞に選ばれる踊りというものが何となく見えてくる。
技術が高い(安定している)というのはもちろんだが、踊りが上手いだけではどうも受賞には至らないらしい。
そして、日本フラメンコ協会の姿勢として「(賞は)優劣順位をつけるためのものではない」ところがポイントである。
「公演」の名に相応しい構成やインパクト、受賞作品にはそれがあるのではなかろうか。もちろん「フラメンコである」ことを逸脱しない上で。
交友関係の広い鶴さんは、友人・知人の多くが新人公演に出ていることもあり、ほぼ毎年会場に足を運んでいる。〇九年頃だったか、夏に
「今年も行きますよね」と聞くと
「どうしようかなぁ」といった。
新人公演に出るには、渾身の一曲を創りあげ、それを技術的にもミスなく踊りこなす鍛錬と集中力、そして情熱がいる。
「新人公演を観に行くたび、みんな頑張っているんだなぁ、すごいなぁって思う。それに較べて、今の自分の『これからどうしていこうか』っていう宙ぶらりんな感じが突きつけられて」
客席から見ているだけでは分からなかったが、エントリーするということは、今の自分にやれる最大限の可能性を探ることなのだと私も思い至った。
鶴さんには、実に多くのフラメンコ友だちがいる。
プロとして活躍している人、それを目指して頑張っている人。ただ、フラメンコを踊ることが好きな人。
以前、一緒にレンタルスタジオに行ったら、更衣室で会う人、会う人、皆知り合いなのでは?と思うほど、たくさんの人に声をかけられた。それも、師事している先生も、出身も、本当にさまざまなのである。
聞けば、スペイン滞在中に同じアルティスタのレッスンを受けたり、ホテルが一緒だったりして顔見知りになったそうである。
そうした、親しい友人のひとりに踊り手の小島裕子さんがいる。
小島さんは草野櫻子さん・原田和彦氏の下でその実力を認められ、〇三・〇四年とマドリッドのタブラオ、トーレス・ベルメハスに出演し、その後ハエンのリナーレスにてペパ・マルティネスに師事。〇五年の愛地球博のスペインパビリオン・アンダルシア週間にも出演した経歴を持っている。
「力強く、意思のある踊りなのに、とてもナチュラルな身体の使い方をする、素晴らしい踊り手だ」と鶴さんはいう。
フラメンコをやっている人で、あるレベルまで突き抜けた人とはストイックな努力と、本番での実践を積み重ねてきた人たちである。そして、その努力をずっと継続できる人。
一方、鶴さんには良くも悪くもガツガツしたところがない。
経歴や踊りをみても決してアマチュアではないし、他の人にはない様々なアンテナや独自のキャリアを持っているのだから、もっと自分を売り込めば良いのにと思うのだが、それをしない。
しないところが、鶴さんの魅力でもあるのだけれど。
鶴さんは、小島さんに新人公演に出ることを話した。ひととおり話を聞くと、小島さんは彼女に
「さっちゃんが何をやりたいのか、私には分からないわ」といった。
「手厳しいねぇ」と私が驚いていると、鶴さんは笑って
「私と裕子ちゃんの仲だから。私も、この年齢で出るのもあるから何となく気後れもあって、軽くいったんです。『新人公演に出てみようかなぁ』って。
でもね、彼女のあの身体の力を抜きつつ、それでも力強く芯がある踊りには、本当に学ぶことがたくさんあるんですよ。だから、彼女に個人レッスンをお願いすることにしたの」という。
力強いけれど、ナチュラルでしなやか。
これは、鶴さんが目指すフラメンコの重要な一要素。
フラメンコというと、大音量のサパテアード(靴音)、つりあがった眉、キレのある動きなど「カッコイイ!」と同時に「ちょっとコワイ!」というイメージも、初めて観る方にはあると思う。
実際、フラメンコの足の動きは身体に大きな負担をかける。姿勢が悪かったり、身体の使い方が正しくないと、膝や腰を痛めることにもなりかねない。
鶴さんは独学でピラティスを学び、筋力を鍛え柔軟性を高めることで余分な力を抜き、より自在に、自由に、激しいフラメンコの振付を踊りこなせるのではないかというアプローチもしている。
この「余分な力を抜く」というのが、踊る上ではとても大切で、そしてなかなか出来ないことなのである。
小島さんの個人レッスンを受けた後、鶴さんは五月、アンダルシアのリナーレスに飛んだ。新人公演まであと三カ月ちょっと。
鶴さんからのメールには
「自分の身体の使い方に自信が無くなってきたので、スペインで一週間個人レッスンを受けてきます」とある。
リナーレスは首都マドリッドから南下しグラナダの手前、昔は炭鉱で栄えた町である。
ここで、小島さんも師事したペパ・マルティネスの集中レッスンを受けてきた鶴さんは、新人公演で踊るソレアの振付をペパに見てもらった。
「本当は身体についたクセを直すつもりで行ったのだけれど、いわれたことを自分のスタイルに取り込めればいいんだって気がついたの。スタイルは変えずに、誤りだけは直そうと」
リナーレスにはタブラオは一軒もなく、ペーニャが四軒ある。鶴さんは日本人の友人に誘われて、ペパやその友人たちが出演するペーニャに参加した。
「ここではカンテが踊りのためにあるわけじゃなくて、カンテはずっと歌っていて、踊るほうもずっと踊っている。タブラオがないから踊りのために合図を出すとか、バイレのための決まりごとをカンテが承知していない感じなの。
でもね、そういう決まりごとや概念を取り払ってしまうと、すごくラクで、フラメンコを楽しめる」
ここで彼女は「歌うから踊れ」といわれ、ほとんど即興のようなノリでブレリアを踊った。
「歌のどこで入っていこうか、よく聞いているんだけど、ここか、と思って入ろうとしたらまた歌が続いていく。あれっと思って、で、ここかな、いいやって踊り出したんだけど、コンパスを外さなければどこで入ってもいい。
すごく難しいと簡単が、紙一重だなぁって。フラメンコの始まりって、こういうところにあるのかもしれないね」
誰しも、目指す踊り手、理想とする踊り手がいる。
あの人のように踊りたいという密かな目標を抱き、その遥か高い目標を追いかけて精進しているうちに、自分の内なるアルテを磨き上げることにつながっていくのだとしたら、それは本当に嬉しいことだ。
最初は誰でも真似から始まる。いつしか
「似ているけれど、こっちのほうがステキだったね」といわれるようになりたい。
鶴さんは、師と仰ぐラ・トゥルコについて
「リラックスしながらナチュラルに動き、上体のやわらかさで踊りを見せるトゥルコの教え方、踊りに感動した」と話している。
同じ曲、同じ振付で踊っても、踊る人間が異なれば同じフラメンコにはならない。それはフラメンコが、踊る人間の生き方が色濃く反映される踊りだからだと思う。音楽に反応する踊り手の心、振付へのこだわり、身体の動かし方が、その人独自のアルテを形成してゆく。

  新人公演に挑戦する

鶴さんは、新人公演でソレアを踊ることに決めた。
演目は出演者が自由に決めてよいことになっている。
ソレアはスペイン語で「孤独=soledad」の意で、全てのフラメンコの原点ともいわれる。フラメンコに携わる人間にとっては、バイレにとっても、ギターにとっても、カンテにとっても特別な存在の曲である。
演者は、特別な思いを込めて踊り、爪弾き、歌う。そのアルティスタの個性、フラメンコらしさが最もよく表れる、いや表れてしまう曲ではないかと思う。プロのソロ公演などでも最後の演目としてよく登場するのがソレアである。

カンテは、実力派カンタオールの阿部真さんが引き受けてくれることになった。
男気のある歌いっぷりが魅力的な阿部さんは「スペイン人らしく歌う」数少ない日本人カンタオールである。阿部さんのカンテを初めて聴いたとき
「日本人で、こんなふうに歌う人がいるんだ」と驚いた。
幹の太い、安定感のある、その場を包み込むような歌声だった。その場に同席していた皆が、ライブが終わるなり阿部さんのカンテを絶賛した。
阿部さん自身は、二〇〇四年新人公演のカンテ部門で努力賞を受賞している。
ギターは、斎藤克己さんのステージで共演している渡辺イワオさん。何度も本番を共にしている渡辺さんとは気心も知れ、信頼関係がある。三十二歳の渡辺さんは、自身もギター部門で今回エントリーしていた。
そして、バイオリンの森川拓哉さんが入ってチームは出来上がった。
新人公演にギター以外の楽器を入れることは異色である。伴奏はふつう、ギターとカンテ、パルマ(手拍子)で構成される。カホンと呼ばれる長方形の箱型の打楽器が入ることはあるが、それもごく稀である。
伴奏者として舞台に上がれるのは「三人まで」という規定なので、別にバイオリンを入れても違反にはならないが、ギター以外の楽器を入れると減点対象になるとかならないとかいわれている。
確かに、バイオリンの高い音色が入るだけでぐっと華やかになり、それだけで作品の印象を上げてしまうから、審査するほうが公平を期そうと辛口になっても無理はない。
鶴さんは、マイナスに響くかもしれないが当初から
「バイオリンは外せない」とこだわっていた。
「自分らしいフラメンコ」を表現するのに、大好きなバイオリンを絶対に入れたいというのである。それは、他の誰でもない森川拓哉さんのバイオリンだからだろう。
森川さんは一九七八年生まれ。早稲田大学を卒業後、アメリカ・バークリー音楽院に三年間留学し、ジャズ・バイオリンと即興理論を徹底的に学んできた人である。
ギターとカンテが奏でる音楽に、バイレがサパテアードを踏み鳴らすというフラメンコの古典的な風景に、艶やかな弦の響きで新風を吹き込み、まさにそれまで見えていたフラメンコの景色を変えてゆくのが森川さんのバイオリンなのである。
最近では、ライブや公演でバイオリンやベースなどの楽器を採り入れるのは珍しくなくなってきた。しかし、フラメンコのコンパスを着実におさえながらバイオリン特有の、流れるような美しい音色を重ね、かつ共演者の魅力を最大限に膨らませていくには非常に高い技術が求められる。
華やかな添え物としてのバイオリンではなく、フラメンコに食い込み、内側からその音楽性を豊潤なものにしていくという確たる役割が、森川さんには期待され、そして毎回その期待に見事に応えているプロ意識の高い方である。
まだ三十代前半と若いアルティスタだが、ここ数年は小島章司さんや碇山奈奈さん、入交恒子さんといった大ベテランの公演に参加していることからも、その音楽性が高く評価されていることが伺える。
新人公演における出演者一人の持ち時間は七分半。踊る曲にもよるが、通常のタブラオライブだと一曲踊るのに十分から十五分程度かかるから、いつもの踊りを七分半以内に終わるよう再構成しなければならない。もちろん、テアトロ公演に相応しい見せ場を作りつつ。
これがなかなか難しい。
鶴さんは、いつも踊っているトゥルコのソレアをベースにアレンジし、七分半に収まるよう作り直したが、どうもしっくり行かない。
阿部さんや渡辺さんは
「見せ場を詰め込みすぎではないか」という。
内容が盛り沢山で引くところがないから、逆に
「何をやりたいのか、分かりにくい」というのである。
最初の合わせは六月二十二日。そこで、かなり再構成が必要という話になり、猛暑の夏、本番の八月十九日まで四回の合わせをすることになった。ギターの渡辺さんとは、それ以外にも九回近く練習を重ねている。
七月二十日の午後から四谷三丁目にあるスタジオで全員揃っての合わせをするというので、取材に行った。
その日は台風が関東に接近し、どんよりとした空模様に湿度も上昇して蒸し暑い日だった。
阿部さんは、今回の新人公演で実に八組の出場者のカンテを引き受けていたのでスケジュール調整が難しく、伴奏者全員が顔を合わせる貴重な時間だった。
難航していたのは、一つ目の歌が終わってエスコビージャ(サパテアード中心の部分)に入るところ。
「ギターとバイオリンがずっと併走しているのも僕は気になって」と阿部さんがいう。
「もっとテンションを上げていかないと。どういう感じがいいのかなぁ」と阿部さんは考え込み、自身のi‐Podに録音していた曲を探し出して
「こういうの、どう? 例えば、だけど」と渡辺さんや森川さんに差し出す。
うんうんと二人は聞きあって、渡辺さんがポロンポロンとギターを爪弾いてみる。
「それでね、こう問いかけてくる歌に対して遮るような感じでジャマーダが入る、バーンって」
「じゃ、ちょっとやってみましょう」
バイオリンの森川さんはその場で音を作りながら
「これだとうまく入れないですねぇ」といっている。
振付は決まっているのだから、カンテもギターもそのヌメロ(曲)の決まったところで決まった旋律を弾き、自分の持ち歌を歌うものかと思っていたが、阿部さんは違う。
もっと作品のニュアンスにこだわり、共演者の持ち味を生かしてテアトロ公演に相応しい内容にしようという。
確かに、タブラオのステージとは異なり、ハコの大きさだけを考えても、ふつうにヌメロを踊ったのでは観客の印象には残らない。
ショウアップするわけではないけれど、自分のフラメンコの持ち味をどう効果的に見せるのかという点では、アイデアが要りそうだ。
あっという間に九十分が経過し、時間切れ。七月中にはこの部分を決めてしまおうと話し、阿部さんは慌しく次の予定に出かけていった。
台風は、夕方から夜にかけて関東に最も近付いてくるようだった。
煮詰まった頭を抱えて、結局そのまま皆で近くのファミリーレストランに入ることにした。
渡辺さんが
「今日、家族がみんな出掛けていて、家におばあちゃん一人なんですよ」という。
「心配じゃないの」
「一人だから、なんか帰りにくい」などといいながら、駅に向かう。
店に入ると今度は冷房が効きすぎて、寒いくらい。それぞれ、食事を注文したり、コーヒーを飲んで落ち着く。
「うーん、どうしようかなぁ」と鶴さんがいう。
フラメンコのヌメロを自分で構成し直して見せ場を作り、全体の辻褄を合わせるというのは本当に難しい作業なのだ。
渡辺さんが
「新人公演で、みんな目新しいこと、変わったことをやりたがるけれど、いろいろ試行錯誤してやっぱりオーソドックスなところに戻ってくる。それはやっぱり古いものというか、正統派のやり方にはそれなりの根拠とか、構成上の理由があるからだと思うよ」という。説得力があった。
森川さんは
「あとは引き算ですよ」という。
具体的にどう音を作るのかという話になって、渡辺さんと森川さんはああしたらどうか、これはどうか、といろいろアイデアを出し始めた。
そして一番大切なのは、鶴さんがどうやりたいかだ。
テアトロ向けに作品を創り込まなければならないというのは十分分かっているが、それをやりすぎると自分が目指すフラメンコらしさから離れていくのではと彼女は危惧していた。
もちろん、創り込むという作業はアルティスタの持つ引き出しの多さにも関わってくる。
八月に入り、再び鶴さんと会う。
新宿エル・フラメンコで行われる小島裕子さんのライブを一緒に観に行くためだ。新人公演まであと二週間あまり。
「あの後どうなりました?」と訊ねると
「賞をとりにいかない方向で、構成を決めることにしました」とスッキリとした面持ちでいい放った。
鶴さんは考えながら
「ちゃんと自分のカラーが出せていて、それが観ている人に伝わればいい。フラメンコだけれど、表現者でもあるわけでしょう。だから、自分が一番良いと思う表現で、観ている人に何か伝わればハッピーだと思うんです」という。
「私」の持ち味とは何か。鶴さんもそのことと向き合ったのだろうか。
以前、彼女になぜフラメンコを踊るのか、もっと教えることにも力を入れてプロを目指せば、とたきつけたことがある。私には、彼女の欲の無さが不思議だった。
「この中途半端なところが、私の弱点なんでしょうけれど」と鶴さんは考えながら
「でもねぇ、私の踊りを実際に見てくれて、心底『良かった』『ステキだった!』と感動してくれる人が何人かでもいたら、私はそれでもう十分幸せなんです。
だから教えるのも、不特定多数の人に呼びかけるつもりは無くて、私の踊りを見て惚れてくれた人と一緒にレッスンを分かち合いたいんです。わがままだけれど」と言葉をつないだ。

鶴さんが新人公演への出場を決めた丁度その頃、私は島崎リノさんのソロ公演の取材でプリメラギター社代表の吉田正俊さんと初めて会い、名刺交換をした。
プリメラギター社はフラメンコギターの販売で知られ、多くの日本人プロ・アマチュアが参加するフラメンコ・フェスティバル「ニューウェーブ」「プリメラの仲間達」のイベントを毎年、新宿の全労済ホールで行っていることでも有名な老舗である。
吉田社長は、私がフリーペーパーでフラメンコの取材をしていると知ると、初対面ながらこういった。
「記事が載ると、いろいろいう人もいるでしょう」
専門紙の記者をしていた頃を思えば、掲載原稿について長々と電話をしてくる人やクレームのようなものが来ることはほとんどない。フリーペーパー「ファルーカ」にくるのは好意的な感想か、読者それぞれの体験談、こんなことが知りたいので特集してほしい、といったリクエストがほとんどである。
いいえ、それほどでもないですよと答えると、吉田社長は
「いいの、誰が何をいってきても、そんなこと気にしていたらダメ。あなたがこれがいいと思ったら、それを書けばいいんだよ」と笑顔でいった。
プリメラギター社の吉田社長については、「ファルーカ」で私以外の担当者が一度「フラメンコ寄り道手帖」というページで取材をしているのだが、私自身はこの時、公演が始まるまでのわずかな時間にお話しただけである。
けれど
「ほかの人が何といおうと、あなたが面白いと思ったことを書け」といわれたのは、その時の私の心にズンと響き、残った。
吉田社長はその後
「まぁ僕みたいに好きなことだけやっていると、事務所の家賃払うのもやっとだけどさ」と笑いとばした。
鶴さんは新人公演に出るにあたり、いろいろな人の意見を聞いている。けれど、その生き方の根幹では「自分が好きなもの、いいと思うもの、美しいもの」へのこだわりが絶対に揺るがない。
そして自分が踊りたいソレアを、今の自分の技量と持てるものすべてを出して格闘する。
本番まであとわずか。やっと決まった構成と振付で、鶴さんは踊り込みに入った。
学生時代バスケ部に所属していた彼女は、サーキット方式を取り入れて自主練した。
「パソ(ステップ、足の動き)とブエルタ(回転)と筋トレをセットにして、三セットやるんです。でも、これをやっただけで結構息が上がっちゃって。大分持久力はついてきたんですけどね」
新人公演の三日前、神保町のタブラオ、オーレオーレでのステージに出演するというので、「ファルーカ」編集部の皆で観に行った。
お盆にもかかわらず、出演者皆で集客に努力しただけあって店内はほぼ満席である。この日も猛暑で、陽が落ちた後もむっとする熱気が残り、おまけに地下一階の店内は、ステージ付近のエアコンが故障していた。
「すみませんねぇ、エアコンが調子悪くて」と店長がすまなさそうにいう。
早急に修理しないとこの暑さだからすぐ客足に影響しちゃうよと、いつもは冗談ばかりいっている店長の顔が真顔になった。
ギターは渡辺さん、バイオリンの森川さんも入って、鶴さんはショーの一部では「ガロティン」を、二部では完成した「ソレア」を披露してくれた。
導入部のバイオリンの旋律が素晴らしく美しい。そして、目の前で踊ってくれた鶴さんのソレアは迫力があり、マドリッド・スタイルの洗練された動きやリズムの遊び方が、観るものをハッとさせる空気を持ち合わせている。
見終わった後、一緒に来ていたライター仲間が
「鶴さん、カッコよかった! でも、ちょっとこれフラメンコ?って感じもしたね」と感想をもらした。
そして八月十九日、第二十回新人公演の初日がやってきた。
お昼過ぎから降り出した雨は、本来なら猛暑になるであろう気温をぐんと下げてくれたうえ、十八時の開演までには止んでくれた。
新人公演は三日間続き、初日はソロ十九人、群舞三組が踊る。鶴さんの出演は四番目である。
暗転板付きで始まる構成。森川さんが弾くのは、マイテ・マルティンの曲をアレンジした印象的な出だしだ。ライトが当たり、鶴さんの腕が大きく動くと、紫のベロアの衣装の袖口に施されたターコイズブルーの刺繍が鮮やかに映える。

最後まで悩んだ、一つ目の歌が終わりエスコビージャに入るところは、カザルスの「鳥の歌」をバイオリンが弾き盛り上げていくという構成で決着した。「鳥の歌」はカタルーニャ民謡で、平和への願いを込めて演奏されたことでも有名だ。
身長百六十三センチの彼女は、上体を大きく使った振付で大舞台でも十分な存在感を醸し出していた。恐らく技術的には、もっと安定していて上手い人もたくさんいるのだろう。けれど、鶴さんにはただ上手く踊るのとは違う、観ているものをハッとさせる瞬間が何度かある。
自分を繕わない。
自然だけれど、流されない踊り。
彼女のフラメンコに接するたびに、鶴さんって本当はどんな人なんだろうかと思い巡らす。
もう何度も会って話しているのに、いつもそう思ってしまう。決して自信に満ちあふれている人ではない。けれど、踊りに表れるあの人を惹きつける力は何なのだろう。
休憩時間になりロビーに出ると、案の定たくさんの友人に囲まれている鶴さんがいた。
「思いのほか真っ暗な舞台に慣れていなくて、平衡感覚がなくなっちゃって。暗転の時からまっすぐ立っていられなかった」といっている。
「あぁ、でも終わってよかった」と心底、ホッとした表情で鶴さんはいった。
二日目はギターの渡辺イワオさんや、斎藤克己さんのスタジオで講師を務めている、仲良しの小林成江さんが出演する。
前日に出番が終了して晴れ晴れしている鶴さんと一緒に開演前のロビーを歩いていると、丁度、今回の新人公演の選考委員でもある曽我辺靖子さんにばったりと会う。
「先生、こんにちは。お久しぶりです」と鶴さんが頭を下げると、曽我辺さんは
「そうそう、昨日のね、あなたの(曲の)導入部を見て、うわぁ、すごい、つるちゃん変わったわ、この後どうなるんだろうってすごくドキドキしながら見たのよ。とても良かったわ」と、その時の興奮そのままに褒めてくださった。
「嬉しい! ありがとうございます」と鶴さんがいうと、曽我辺さんは
「でも、後半疲れた? スタミナ切れした?」とズバリ仰った。
「前半の盛り上がりがすごければすごいほど、観客は後半にそれ以上の期待をするのよ。その部分がちょっと、ね」と続けた。
鶴さんは正直に
「振付がやっと完成したのが、今週初めだったんです」と答えた。
曽我辺さんは頷きながら
「そう。普通は一カ月前に振付が固まって、残りの一カ月間で踊り込みに入るからね。その時間がなかったのが残念ね。
ただ、バックのアーティストとよくコミュニケーションをとって創ったんだなぁというのは伝わってきたわよ。ただ、伴奏をお願いしますという感じじゃない。そういうのは、見ていてちゃんと分かるから」といってくださった。
鶴さんは以前、曽我辺さんが主催したフラメンコ・ミュージカルのオーディションを受け、その時の舞台に出演したことがきっかけで知り合ったのだと教えてくれた。
新人公演の結果は、最終日の日曜日の深夜に日本フラメンコ協会のホームページに発表される。鶴さんは今回、受賞には至らなかった。
彼女はそんなことは全く気にせず、九月に入ると三週間の日程でスペインに旅立っていった。もちろん、マドリッドのフラメンコ・スタジオ、アモール・デ・ディオスでレッスンを受けるために。
十一時から十七時まで、一時間の休憩を挟むだけで後はずっとスペイン人のレッスンを受けるのだ。
鶴さんと知り合った頃、自由にスペインと日本を行き来し、フラメンコを学び続けている生き方が「うらやましいなぁ」といったら、鶴さんは
「私だってふつうに結婚して、子ども生みたいですよ」と返した。
そして時々ふと
「こんな、キリギリスのような生き方をしていていいんでしょうかねぇ」と呟く。
実家暮らしとはいえ、銀行員時代の貯蓄を使っているのだから、キリギリスではなくむしろアリなのではないかと思う。
結婚していても、パートナーとの関係に変化は生じる。
病気や死別、離婚。子どもがいれば、子育てのこと、経済的なこと、すべてが自分にのしかかってくる。四十歳を迎えて、そういうリスクが人生のどこかにひそんでいるのだということを、雑誌の記事などより遥かにリアリティをもって、私には感じられるようになった。
「ふつうの結婚」とは、どんな結婚生活を指すのだろう。
鶴さんはシングルだけれど、フラメンコを通じて実に多くの友人がいて、師や先輩にも恵まれ、毎年甥っ子たちと旅行も楽しんでいる。
誰かとゆるやかに、そして確かにつながっている。
そんな彼女がソレア(孤独)に託したのは
「自分の孤独さを哀れんだり、憎んだりするけれど、その孤独は自分が選んだ生き方なのではないか」ということだった。
ひとりであれば、ふとしたときに噛みしめる孤独感。そして、誰かといても、孤独と不安を感じてしまう私たち。
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