【フラメンコライフ】第5回

2016.09.20

踊り手からアルティスタへ――里有光子  
気持ちを共有して踊りたい――屋良有子  
上達することに貪欲であれ――篠田三枝
 

働きながら踊り続けてきた人、私費でのスペイン滞在の後公費留学を成し遂げた人、出産・育児を経て花開いた人。30代の実力派バイラオーラ(踊り手)が選んできたそれぞれの人生。

Flamenco × Life 5

  踊り手からアルティスタへ

         ――里有光子

「私、こうやって踊って生きていくんだなぁ」  里有光子さんが漠然と将来を見定めたのは、CAFフラメンコ・コンクールで奨励賞を受賞しスペインに留学中の、三十歳を迎える頃だった。
それは「これから踊って生きていく」という決意のようなものではなく、自分のコンプレックスや弱味を受け入れて尚「そんな私でも踊っていける」という、強さに裏打ちされた安堵感だった。
スペイン舞踊振興マルワ財団が主催するCAFフラメンコ・コンクールは、日本における若手舞踊家の登竜門ともいえ、二年に一度開催される。
優勝者には賞金百五十万円(含スペイン研修費)とスペイン往復航空券、準優勝者には賞金百万円(同)とスペイン往復航空券が与えられる。そして、三十歳以下の成績優秀者には「奨励賞」が設けられており、スペイン・セビージャにあるクリスティーナ・ヘエレン財団フラメンコ芸術学校授業料と滞在費補助(六十万円)、スペイン往復航空券が与えられるのである。
里さんは二〇〇九年第五回CAFフラメンコ・コンクールにて見事奨励賞を受賞し、同年九月~翌年六月まで渡西している。
一九七九年生まれの彼女は、信州大学ダンス部でフラメンコと出会う。
六歳から高校卒業までモダン・バレエをやっていたので踊りに対する造詣もあり、身体も良く動いた。学生時代から滝沢恵さんに師事し、〇四年十一月からモダンな振付で知られる森田志保さんのスタジオに通う。〇六年夏には日本フラメンコ協会新人公演にて奨励賞を受賞している。
バレエを始めたときから「踊ること」は、里さんにとってライフワークとなった。
「プロかアマチュアかを問わず『踊りのない人生』をむしろ想像できない。もともと踊りは遊びの延長なんです」と彼女はいう。
大学卒業後は千葉の実家に戻り、派遣社員としてテレフォンオペレーターや営業事務の仕事、ウェイトレスのアルバイトなどをしながらフラメンコを続けてきた。
新人公演で奨励賞を受賞した後は、森田さんが主宰するスタジオ・トルニージョで講師を務めるまでになり、その後CAFフラメンコ・コンクールでの入賞を経て長期留学を果たした後も、一二年春までフラメンコ以外のアルバイトを続けてきた。
「クラスで教えてタブラオに出演しても、踊りだけではまだ生活していけないから。でも、私、ふつうに働くことも好きです。フラメンコの世界しか知らないのは、勿体ない」
派遣やアルバイトの仕事で嫌な思いをしたことは一度もない。自分から「もう辞めたい」と思ったことも、一度もないという。
「フラメンコって、踊りにすべて出る。その人の生き方、ものの見方、人間の在り方が。だから面白いし、誰でも踊れるんです。
長年踊ってきたバレエは『出来ないこと』の方が目をひく。スタイルの良し悪しや柔軟性、ジャンプの高さ、優雅さ。でもフラメンコはそうじゃなかった。出来なかったら違う選択肢がある。それは大きな発見でした」
大学時代、経済学部システム法学科に在籍していた里さんは、進学当初、法律を学んで司法試験を受けるか、行政書士を目指そうかと思っていた。けれど、自分が考えていた以上に法律の世界は広がらなかった。第二の踊りとして選んだフラメンコのほうが遥かに面白く、奥深かった。
大学三年になった二〇〇〇年からは、同級生と同じように就職活動を始めた。民間企業を中心に旅行会社など「人と接する仕事」に応募した。しかし、地方の国立大学の女子大生になかなか朗報はやってこない。
この年(二〇〇〇年)は、西鉄高速バス乗っ取り事件など少年犯罪が続発、また雪印の食中毒事件が世間を騒がせた。そして大手百貨店そごうが七月、グループ全体で二兆円を超える負債を抱えて倒産したのもこの年である。秋には、バブル期の過剰な不動産投融資で失敗した千代田生命や協栄生命などの倒産が相次いでいる。
「総合職でも一般職でも、とにかくたくさん応募しました。あの頃はベンチャー創成期でしたけれど、IT企業には興味が持てませんでした」
四年の夏も終わり、九月に入るとアメリカの同時多発テロのニュースが報じられた。
結局在学中に就職は決まらなかった。
里さんが学生時代を含め六年間師事した滝沢恵さんは、マドリッドのアモール・デ・ディオスで伝統的なフラメンコを習得してきた方だった。滝沢さんは折にふれて里さんに「プロになりなさい」と強くフラメンコへの道を勧めてくれた。
大学フラメンコの公演や祭典などを通じて、多摩美出身の島崎リノさんや今枝友加さんが都内のタブラオなどで活躍しているのも見聞きし
「ああいう生き方もあるんだなぁ」と思い始めた。
卒業して千葉の実家に戻り、派遣やアルバイトで働きながらフラメンコを続けていったのも、彼女ら先輩たちの影響が少なからずあった。
ちょうど六本木にある「麗の店」で毎週フラメンコを踊ることになり、クラスレッスンもあって「残業のない仕事」にこだわって働いた。
「残業できないというのは、私にとって頑固なまでに譲れない条件でした。プロの踊り手になろうと思っていた訳ではありませんが、一方で正社員の仕事に就こうとも思わなかった。フラメンコは私のライフワークなので、永遠のもの。仕事は、あくまで生活を支えるためのもの。フラメンコと同じ重さで、仕事に責任ややりがいを求めたら心が辛くなってしまう」
社会人になってから二カ月、四カ月といったスパンで渡西できたのも、流動的な働き方のおかげだ。
ハキハキと質問に答え、常に周りをよく観察し行動する彼女は頭が良い。企業にいても着実にキャリアを重ねられたはず、と思う。

彼女が第五回CAFフラメンコ・コンクールで奨励賞を受賞する二年前、トルニージョで一緒に切磋琢磨していた屋良有子さんが同コンクールで奨励賞をとる。
「有子はとても刺激的な友人。そして、ストイックに練習を積み重ねられる人」
「私はCAFフラメンコ・コンクールで奨励賞を受賞する前、二回同コンクールで予選落ちしているんです。特に第四回(〇七年)は、(日本フラメンコ)協会の新人公演で奨励賞をとった直後だったので『何でダメだったんだろう』って、すごく考えました。勢いで乗り切ろうとしていたんでしょうね、踊りにもおごりがあったと思います」と振り返る。
二度の予選落ちを経験してから、他の人の踊りに目を向けるようになった。以前にも増してよく観察し、研究するように。そして三度目の挑戦で入賞し、スペイン留学の切符を手に入れる。
「三回目は、踊り終わった後、何の自信もありませんでした。それが良かったのかもしれない」
「フラメンコをやっている人って、アーティスト肌の人が多い。私はそうじゃないんです。わりと普通の人で、周りに対して順応性もある。踊りのキャリアがあるからかもしれないですが、振付を覚えるのも早く、ある水準までは器用にこなせてしまう」
尖ったところがないというのが、フラメンコを続けてきてずっとコンプレックスだった。しかし、スペイン留学中に三十歳を迎え
「あ、私はこれでもいいんだ、と思えるようになったんです」
留学先のクリスティーナ・ヘエレン財団フラメンコ芸術学校には各国からの留学生も集っていたが、十代、二十代が中心で里さんが最年長だった。三十歳という年齢は、スペイン人ならばもはやベテランの域。
「ユミは何歳?」と学校の友人に聞かれ
「三十歳って、いえなかったですよ」と里さんは笑う。
そうか、私ってもう「いい大人」なんだ。
出来ていようがいまいが関係なく猛烈に進んでゆくクラスの振付、その復習、学校の授業以外に受講する個人レッスン、渡西中やらねばならないことをコツコツと積み上げていった。
二〇一二年七月、里さんはすみだトリフォニー小ホールにて初のソロリサイタルに挑む。
二百七十の客席を「里有光子」の名前だけで埋めるのである。スペインから帰国直後に新宿のエル・フラメンコでソロ公演をやったことはあるが、こちらは百五十席。テアトロ公演に二の足を踏んでいた彼女の背中をぐいと押したのは、師・森田志保さんだ。
「若くて、エネルギーがあるうちにやりなさい」と。
森田さんは教授活動やタブラオで活躍されているほか、自ら創りあげるフラメンコの舞台「はな」シリーズを定期的に劇場で発表している。これまでに六回の公演を行っており「はな6」は〇九年度文化庁芸術祭優秀賞を受賞している。
「志保さんとの出会いは、それまでのフラメンコ人生におけるターニングポイントでした。滝沢さんにはサパテアード(靴音を操り多様なリズムを打ち出す技巧)を重点的に教えてもらいましたが、志保さんはマルカールをとても大切にしていて、これにかける時間が半端じゃなかった」
マルカールとは「印をつける、拍子をとる」という意味で、コンパスにのってパソを踏むことである。高速の足技とは違い、ゆっくりしているので一見簡単そうだが自分でコンパスを刻む、基本の動きである。
「ある日のレッスンで三十分間ずっとマルカールをやるというのがありました。志保さんはパルマを叩いているだけ。良いともダメともいわず、私たちひたすらマルカールをやっていました」
この時、フラメンコって踊っていてリズムが合えば良し、という世界じゃないんだと気がついた。
テアトロ公演はエル・フラメンコでのライブとは異なり、バックアーティストのほかにプロの舞台監督、音響、照明を頼む。それだけでも百万円は下らない。
「緊張しますよ、すごく。でも、私が腹をくくるためには必要なことなんです」と里さんは表情を引き締めた。
二十代の頃、フラメンコは続けて、でもふつうに仕事もして、結婚して、子どもを産んでと漠然と思い描いていた将来。こんなにフラメンコの比重が重くなるとは思いもよらなかった。そして今でも、まだ迷いながら、覚悟を決めようとしている。
(二〇一二年二月取材)

  気持ちを共有して踊りたい

           ――屋良有子

小学校までは沖縄で育ち、中学・高校時代を福岡で過ごしてきた屋良有子さんにとって、故郷から東京に行くのも、スペインに飛ぶのも、その心理的な距離は大して変わらなかったのかもしれない。
大学卒業後すぐに自費で渡西した彼女は、これまでに一度も「就職」をしていない。
帰国後もアルバイトをしながらフラメンコを続け、三十歳でコンクールの奨学金を得て再びスペインに九カ月間留学。帰国したその翌年には、文化庁の海外派遣員として一年間スペインへの留学を果たしている。
踊ることも、身体を動かすこともフラメンコが初めてと話す彼女は、高校時代放送部に在籍し、その朗々とした澄み切った声を生かして全国大会で優勝したこともある。ごく自然にアナウンサーを目指していたが、早稲田大学のフラメンコ・サークルに足を踏み入れた時から、人生の指針を大きく変えてゆく。
屋良さんは一九七七年生まれ。早稲田大学教育学部に進学し、フラメンコに夢中になりながらも、アナウンサーになる夢も温めていた。
「大学二年の時、六本木にあるカフェ・デ・チニータスという、マドリッド本店の姉妹店でウェイトレスのアルバイトをしたんです。いわゆる高級タブラオ。そこで踊っていたプロのスペイン人の踊りに衝撃を受けました。自分はもっとクールな人間だと思っていたのに、そうじゃない、感情に突き動かされる瞬間があり、素の自分が出てくるのがフラメンコに触れている時なんです」
店はあいにくその後二年で閉店。本場のフラメンコに触れたい、その思いで大学三年の時、三カ月間渡西する。アナウンサーを目指して、在学中から放送局が主催するゼミにも通い、計画的に行動してきた彼女だったが、初めてのスペイン行きで自分の中の何かが弾けた。
もっと自由に、自分のやりたいことを素直にやろう、と。
「すごく、ラクになりました」
本当に自分はフラメンコの道へ進むのか。その思いを確認しようと翌年、再び三カ月の渡西を経て、決意を固める。
一度だけ、六本木のチニータスに上京した父が寄ってくれたことがあった。
「父は何もいわなかったけれど、良い印象を持たなかったのは感じました。スカートをたくし上げ、険しい顔で踊る踊り子に娘がなるのは抵抗があったと思います。今では、一番の応援者です」
大学を卒業するとすぐにスペインへ。
「在学中に目一杯バイトしました。下宿生活でしたが、何とか渡航費用百万円を貯めました」
そうして、二〇〇一年から三年間、自費でのスペイン留学を敢行する。セビージャに滞在、ピラール・オルテガやアデラ・カンパージョ等に師事し、文字通りフラメンコ漬けの日々。
「セビージャの魅力は『生』を生きているという実感。ユーロ導入前の最後のペセタ時代で、ヨーロッパというよりアフリカに近い感じでした。生活水準は低いけれど、今を一生懸命に、自分に正直に生きている。人々の輝く目や突き抜ける笑顔が大好きです」
スペインはフラメンコを学ぶ場であるとともに「生きること」を実感する生活の場でもあった。

「三年間、毎日朝から晩まで踊っていました。踊るために食べたり眠ったりして、そういう生活がすごく楽しかった」
その当時の練習を収めたビデオがある。お昼から夜まで、スタジオの窓の風景が明るい日差しから夕闇に変わっても、ひたすら回転の練習を繰り返している自分が映っていた。そういう、地道な練習を撮ったビデオがたくさん出てきた。
「テクニカ(技術)は練習の量に確実に比例します。出来ないという言い訳を自分にしないよう、毎日の練習を欠かさないのは私にとって自然なこと」
〇四年に帰国後は実家のある福岡に一旦戻り、〇五年から東京の松丸百合さんに、〇六年春からは森田志保さんに師事する。そしてその年の八月には、日本フラメンコ協会新人公演にて里有光子さんとともに奨励賞を受賞する。
だが、その森田さんのスタジオも一年通い卒業している。
自分とは異なる個性の踊り手を数多く羽ばたかせていることで知られる森田さん。
「志保先生は何でも惜しみなくくれる人。技術、表現、気持ち、あらゆるものを。でも、そこでもらっているだけではだめなんです。スペイン留学中もそうでしたが、今自分に何が必要か、何を得たいのか常に自問し探していくのが、私の学び方です」
時を置かず、翌〇七年二月には第四回CAFフラメンコ・コンクールにて第三位及び奨励賞受賞を果たす。この頃から、東京・大塚にあるシェアハウスに暮らしてきた。寝室は個室だが、キッチン、居間、風呂、トイレは共有の、三十人が共同生活するマンションだ。
大学卒業後すぐに渡西。三年半で帰国後は松丸さんや森田さんに師事するも、長期間所属することはなくスペイン、福岡、東京を行き来する生活。スペインでは外国人である自分を常に意識させられ、東京にいても「福岡から出てきた自分」をずっと感じていた。
私、屋良有子とは何か。
一人でフラメンコに打ち込む孤独な時間と、心の深い部分で共演者とつながろうとする想いが、彼女のフラメンコを磨き上げてきた。
〇七年の第四回CAFフラメンコ・コンクールでの第三位及び奨励賞受賞について、屋良さんは伴奏を引き受けてくれたギタリストの松村哲志さん、カンタオールの高岸弘樹さん、パルマの阿部真さんの名前を挙げ
「まさにグループでの受賞です。この時は、創り上げるまで皆で一緒にいる時間も長かったし、たくさん合わせもやりました。気持ちを全部もらいました」といった。
「彼らは、曲に対する私のイメージを理解し、共有してくれました。例えば、足の運びが他の人とはちょっと違う。『ふつうはこうするよね』といわずに『違うには、それなりの理由があるんだろう』といってくれる。本選ではアレグリアス(「喜び」を意味するスペイン語で、明るく快活な曲)を踊ったのですが、私は喜びそのものを表現するのではなく、喜びにいたるまでの苦しみや悲しみ、つらさに光をあてて踊りたかった。
そのことを話すと、彼らはそのイメージを理解して音を作ってくれました。そのイメージを具体化するために、こういう音を入れようと。振付ありきで創るのではなく、創る過程を大切にしてくれる人が、私は好きなんです」
本選には、大塚のシェアハウスの住人らが駆けつけ、彼女が舞台に上がると「アリコーッ!」と大きな声援を送ってくれた。
奨励賞を受賞した彼女は、その年の秋から九カ月間、セビージャのクリスティーナ・ヘエレン財団フラメンコ芸術学校に留学する。
そしてその留学の最中、アンダルシア州政府の企画でカルトゥハ修道院においてフラメンコを踊る機会を得る。その時の屋良さんの踊りを観た州政府の役人から後日、電話が入る。
「今年のビエナルの併行プログラムで踊らないか」
州政府としてビエナルに出す企画に参加してほしいという内容だった。世界的なフラメンコの祭典であるビエナルで、本プログラムではないけれどその一端にアルティスタとして参加できる。
「やったー!って思いました。嬉しかった。何度も、本当に私で良いのか、確認しました」
スペイン人ギタリストやカンタオールと何度も合わせをし、信頼関係を築き上げて四回のソロ公演に臨んだ。
屋良さんは共演者のことを話すとき、よく「気持ちをくれる」と表現する。
心の深いところで、何かを共有したい。それが、フラメンコを踊る上で一番大切だから。
そんな屋良さんが
「これまでのフラメンコ人生で最大のクルシージョ」と評するのが、〇九年秋に受講したエヴァ・ジェルバブエナのクルシージョだ。
エヴァは名実ともに、現代フラメンコを代表するスター。クラシックや現代舞踊の巨匠たちとも舞台を共にしており、一二年一月に公開されたカルロス・サウラ監督の新作映画「フラメンコ・フラメンコ」でも二曲にわたり出演している。
五日間にわたって行われた「劇場公演のための講座」は、エヴァ自身初めての取り組みで、実際に劇場を借りて行う大規模なものだったという。受講料は四百ユーロで、ほぼ丸一日のカリキュラムが五日続いた。
「朝は十時から十四時までで、身体の使い方やコンテンポラリーダンスをやりました。例えば、動物の真似をする、大声を出す、自分が思うフラメンコのポーズをとる、といった感じです。
ロルカの詩をエヴァが読んで、クラシックや効果音など五つの音楽が与えられて、その音を使って先のロルカの詩を自分で表現せよ、とかね。とにかく画期的で衝撃的でした」
「いわゆるフラメンコの振付を教えるようなことは全くなくて、エヴァは『振付を習おうと思ってきている方や、習おうと思ったことが得られないと感じた方は残らなくていいです。受講料は返します』といって、若いスペイン人の踊り手は途中でやめていきました」
屋良さんのような外国人も含め当初三十人ほどいた参加者は、最終日には二十人に減っていた。
こんなお題もあった。
「目を閉じるようにいわれて目を閉じると、キャーッと笑う声やキィーッという不快な音や、いろんな様々な音が流れてきて、その音を聞いて心が反応した瞬間に目を開けて部屋を出て行くという課題でした。でも、絶え間なく聞こえてくる音に何だか責め立てられているようで、なかなかその場を立つことができなかった」と屋良さんは振り返る。
午後は十七時から二十時まで。音楽監督や衣装、照明、カンタオールなど劇場公演を創りあげるのに必要なプロフェッショナルが来て、話をしてくれた。
「文化庁の海外派遣員としてスペインに到着後一週間でこのプログラムを受講してしまったので、その後、私、これからどうしたらいいんだろうと途方にくれてしまいました。そのくらい、ショッキングな講座でした。
しばらくコンテンポラリーダンスのレッスンを受けたり、クラシックを聴いたり、本を読んだり、日記をつけたり……フラメンコ以外の時間を大切にしました。そうしたら、フラメンコがより分かるようになったんです」
心の深いところで何かを感じて、そのことを他者と共有したいと考えている彼女にとって、このクルシージョはどれほど刺激的で濃密な時間だっただろう。
「フラメンコは私にとって憧れでした。学べば学ぶほど自分と距離があることを痛感する。それでも近づきたくて夢中で走ってきました。でも、立ち止まったとき気付いたんです。自分の中を見なければいけないって。そこにフラメンコがあるんだって」

  上達することに貪欲であれ

            ――篠田三枝

フラメンコを始めてわずか二年、二十七歳でタブラオにレギュラー出演するようになった篠田さんは、毎週の本番が自分を磨いてくれたという。
「ステージでの失敗は山ほど。数え切れないくらいですよ」
パルマの叩き方もよく分からず、ゲストのプロバイレが抜ける(見せ場が決まる)ところで感動のあまり立ち上がって拍手してしまったり、自分が踊ればお客から
「発表会じゃねーんだよ」と罵声を浴びせられたりした。
実力不足を痛感しても、一度も本番を降りようとは思わなかった。
「私、フラメンコを始めてまだわずか。これから、まだまだ上手くなるから、もう少し待ってよ」
そう心の中でお客に呼びかけ、毎回ステージに立った。
フラメンコはどんなに練習を重ねても、ギターやカンテと共演する本番を通してしか、身につけられないものがある。篠田さんは当時、いくら恥をかいても本番のプレッシャーから逃げなかった。
「一度間違えたことは、二度はやらない。とにかく周りには『ごめんなさい』と平謝りに謝って、一生懸命踊りました。フラメンコを学べば学ぶほど、習いたての頃の自分がどれだけステージで迷惑をかけていたかが分かり、だからこそ、同じ失敗は繰り返さない、上手くなろうとクルシージョを受け続けました」
篠田さんは一九七三年生まれ。香川県高松市の出身。大学卒業後はコンピュータ関連の会社に勤めている。運動不足を解消しようと、二十五歳のときに行ったカルチャースクールでの体験レッスンがフラメンコだった。
大学時代はハンドボール部のマネージャーだったが、基本、スポーツとは縁遠い生活を送ってきた。中学では卓球部に所属していたが、理由は
「他の運動部に較べラクだったから」
「カルチャースクールでアルゼンチン・タンゴかベリーダンスか、フラメンコをやろうと思っていました。たまたま最初に行った体験レッスンがフラメンコだったんです」
仕事ではデスクの前のパソコンと睨めっこで、座りっぱなしの生活だったから、身体を動かして踊るのは爽快だった。小学校の六年間ピアノを習っていた以外は特に踊りの経験もなく、運動嫌いで通っていたというのが信じられないくらい、カルチャーではめきめきと上達した。
ちょうどその頃、一つ上の大学時代の先輩と結婚したばかりだった。彼は仕事で忙しく、一人の時間を持て余していたのもカルチャーに足を運ぶきっかけになった。
「パソの覚えも早かったので、カルチャーでは『天才!』ともてはやされ、自分の力を勘違いしちゃったんです」と篠田さんは笑った。
小林和賀子さんが教えるカルチャーのクラスに一年半通い、二〇〇〇年十月にはスペイン・グラナダに三カ月間の留学を果たす。
「スペイン語もよく分からず、フラメンコのレッスンで初級クラスのつもりが上級クラスをとってしまって。シギリージャの振付クラスで、毎日あるとてもハードなレッスンでした。私のためにクラスが遅れるのはいやだったので、その日に習ったことは必ず翌日のレッスンまでに出来るようにしました。もう必死でした」
スペインから帰国すると、八王子のタブラオ・カルメンで毎週島崎リノさんや今枝友加さん、阿部真さんらと共にレギュラーを務めるという、この上ない実践の機会を得る。
「『カルメン』の他に、横浜の『キャベツ』というスペイン・レストランでも月三回レギュラーを持たせてもらい、松島かすみさんや土井まさりさんたちと踊っていました」
この、ほぼ週二回の本番が、未熟だった彼女のフラメンコを鋼のごとく鍛え上げる原点となった。
「タブラオライブだと、初対面のギタリストが本番五分前にやってきたり、カンテがいなくて踊り手が交代で歌を歌ったり。踊りも下手でしたけれど、本当にいろんなことを試したり、歌を勉強したり、ありとあらゆる試行錯誤をやりました」
そんなライブを、篠田さんは〇三年の出産まで続けた。
週二回本番で踊るかたわら、昼間は派遣社員として働いた。
「昼休みの一時間は会社のビルの屋上で練習するんです。ホラ、おじさんたちがよくゴルフの素振りの練習をしているでしょ。その横で、私はタカタカタカタカやっているわけですよ。そして、仕事帰りにはレンタルスタジオで毎日二時間練習しました」
篠田さんは三カ月間の渡西から帰国してすぐ、日本でもスペイン人のクルシージョを受け始めている。プロをめざして、ではない。
「ただ、上手くなりたかった」
高校時代の親友は故郷でバレエの先生になった。彼女は本当に幼い頃からバレエをやっていて、二十年近くバレエを踊って、それでちょっと、教えられるくらいになった。バレエの世界は層が厚い。そんな親友を間近に見てきたので「踊りでプロになる」なんて、そんな簡単なことじゃないとよく分かっていた。
〇三年秋に長男を出産後は、しばらく踊らないだろうと思っていた。
大変なお産だった上に、十六キロも太ってしまった。全く踊る気がないところにフラメンコ仲間から
「私たち、今年(〇四年)の新人公演に出るから、三枝ちゃんも出なさいよ。これ、申込書。一緒に協会に持っていってね」と友人たちの分の出演申込書を託されてしまったのだ。
今回申し込まなかったら、この後本格的にフラメンコを踊ることはないかもしれない。篠田さんも、周りもそう思った。この、産後十カ月で出演した日本フラメンコ協会新人公演で、彼女は思いがけず奨励賞を受賞する。
〇歳児がいる生活で、満足な練習時間などとれるはずもなかった。自宅のマンションで子どもが寝入った後、隣の部屋に古い絨毯をたくさん敷き、さらにその上にゴムシートを敷いてパソを踏んだ。そういってから
「コレ、練習になってないですよね」と篠田さんは大笑いした。
新人公演前に一度だけ五日間のクルシージョを受講し、ギターやカンテとの合わせは四回ほど。
「産後十カ月の私に誰も受賞を期待していないし、私自身も上手く踊ろうというプレッシャーは皆無でした。ただ、育児から解放され、外出できた! 私だけの楽しい時間としか思っていなくて、とにかく早く本番で踊りたかった」
その弾けるような、無垢な喜びが伝わったのだろう。この時踊ったアレグリアスは見事奨励賞に輝いた。
その後は、縁あってえんどうえこさんのスタジオで講師をしていたこともあり、子どもが三歳になると保育園への入所を希望して、本格的にフラメンコに復帰する。
といっても教えたり、ライブに出演して得られるギャラはまだわずか。自分が、スペイン人のクルシージョに支払う受講料のほうが、収入を上回った。自営業の夫はとにかく多忙だったが、経済的な支えになってくれたことも確かだった。
ペパ・マルティネスやメルセデス・ルイス、エステル・ファルコン、ラ・モネータ、ソラジャ・クラビホなど、本当に多くのアルティスタのクルシージョを受けた。一一年には、二十七歳にして数々の賞を受賞しスペインでも傑出したアルティスタのひとりとして注目されているロシオ・モリーナの来日クルシージョにも参加したという。
「あ、この人のレッスンを受けたいと思ったら、迷わず申し込んでいました」
四十歳までは、もっとフラメンコが上手くなることだけを優先していこうと思っている。
ロシオ・モリーナのレッスンはとても細かくて、音のとらえ方にも一切妥協がなかった。ペパ・マルティネスはとても丁寧に、一生懸命教えてくれる。日本人だからどうせ出来ないとは思わず、勢いで踊らないことを教えてくれた等など。匂い立つようなアルテを身にまとっている踊り手でも、考えて考えてフラメンコを踊り、そして体型にコンプレックスを感じていてもそれを補うように技術を身につけている様が垣間見えた。
「たくさんのスペイン人のレッスンを受けたので、誰か一人の踊り手に強く影響を受けてその人のように踊るということが、私にはありません。その人から振付を習っても、必ずその通りには踊れない、私は踊らない、と思うときがあるからです。
数多くのクルシージョを受けるうちに、例えば『哀しい』を表現する方法がたくさんあることを知る。人によってその表現は異なる。あぁ、でも、あのレッスンもこのレッスンも実はいいたいことは同じ『哀しい』なんだと、受けていく中で気が付くんです。そのことに気が付くと、自分の表現の幅が広がっていきます」
そして、それは習っただけでは身につかない。ステージでの実践を重ねていくことで、確実に自分のものになってゆく。
「私たち日本人はフラメンコを踊るときに、いろいろ習って、素晴らしい踊りを見て、あれもやりたい、こうなりたいって追い求めるんですが、意外に自分自身を見ていない。
自分を知る、見つめるってとても大切なことだと思うんです」
〇七年のCAFフラメンコ・コンクール本選に出場した時のこと。サパテアードがすごいといわれていた篠田さんは、なぜかそのことがとてもいやだった。「足だけの人」と思われたくなくて、本番ではあえてエスコビージャ(サパテアード中心の部分)をとり払った構成で勝負に出る。優勝者とは大きく引き離された点数が出た。
「でも、その後のライブの本番でエスコビージャを思いっきりやったら、とても気持ちよかったんです。
苦手なことは、マイナスじゃなきゃいいんです。せめて基本の『ゼロ』まで戻せばいい。むしろ得意なことをプラス二からプラス五になるよう伸ばしてやろうと思いました」
それは、日本で活躍するスペイン人舞踊家で、振付家としても有名なベニート・ガルシアさんにもいわれた。
「日本人は苦手なことばかり練習する」
苦手なことは、足を引っ張らない程度に出来ていれば良しとする。苦手を克服して花丸をもらう必要はないのだ。それより、良いところ、得意なものを最大限に伸ばそう。
「そのことに、ここ二、三年かけて気がついたら、踊りに迷いがなくなってきました」
一一年夏に行われたベニート・ガルシア公演「証 AKASHI」(シアター1010)に出演した篠田さんは、自身で振付けたアレグリアスの中でベニートさんと希望に満ちた素晴らしいパレハ(男女ペアで踊ること)を見せてくれた。

「私のフラメンコは、人との出会いに支えられてきました。二十代の頃、一緒にタブラオに出演し成長してきた仲間たち、小林先生、えんどう先生には本当に感謝しています。
生活の中にフラメンコが息づいているアンダルシアの人々と違い、私は日本人なので、一人では決して上手くなれない。踊り手、ギター、カンテ、いろいろな人からアドバイスをもらい、いわれたことは一度とにかくとり入れて試してみます」
四十歳までは、もっとフラメンコが上手くなることだけを優先していこう。
そうして踊ってきた結果、ライブや公演に呼ばれる機会が増え、「教えて欲しい」とグループレッスンや個人レッスンの申込みも増えてきた。期せずして、フラメンコは仕事になった。
夫はフラメンコには関心がなく、子育てや家事を分担してくれることもなかったが、夫の両親は、レッスンやライブに行くときに快く孫を預かってくれた。小学二年生になった息子は、夜のレッスンの間スタジオの控え室でDSをやりながら待っていてくれるまでに成長した。
思うようにできずに落ち込んだり、低い評価に悩んだりすることはあっても、良い本番が巡ってきて気持ちを盛り返す。
「今できなくても当然。だってフラメンコに出会って十数年。まだ、そんなに上手く踊れるわけがないから」
6につづく