★Comentario 「カンテの泉」最終回を飾るのは、ラストにふさわしく、本誌の名前を冠した曲ファルーカだ。ラストにふさわしく、というとゲームのラスボスか何かのようだが、こちらはそんな恐ろしいものでも、おどろおどろしいものでもない。むしろ昨今の日本と同様、たいへんな暑さにあえぐイベリア半島にあって、昔ながらの湿潤な気候を保ち、訪れた人にほっとひと息つかせてくれる土地……そして、刺激が強くオイリーな食事に胃腸が疲れてきたころ、「美味しいものが食べたければcasa gallega(ガリシア料理)と書かれた看板を探せ」といわれるほど、胃腸にも心にも優しい料理を提供してくれる土地……それが、北西部に位置するガリシア地方だ。近年は、サンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼の終着点としても知られている。隣国ポルトガルには首都マドリードより近く、話されるガリシア語はもともと、ポルトガル語にルーツがあるともされる。民謡にはバグパイプが用いられ、スパニッシュケルトの伝統を持つ。 このガリシアと、北海沿いを東に行ったアストゥリアス、この辺りから出稼ぎに出た人のことを、アンダルシア人はファルーコ(女性形はファルーカ)と呼んだ。「フランシスコ」の愛称、との説もある。彼らが口ずさむ歌の調子は一見メランコリーでありながら、なぜか人びとの心をとらえた。20世紀初頭ギターのラモン・モントージャ、踊りのファイーコがファルーカに新たな命を吹き込んだ。
★Comentario セビージャ、カディス、マラガ……海と太陽のイメージが強い、西アンダルシアの街々。華やかでポジティブな印象のこれらの街に対して、グラナダ、ハエン、アルメリアといった東アンダルシアの街々は、山や丘陵が多く、静かで落ち着いたイメージだ。グラナダを麓としてそびえるのは、万年雪をいただくシエラ・ネバダ。アンダルシアとカスティーリャを隔てるシエラ・モレナと並ぶ大山脈で、主峰ムラセン山はイベリア半島いちの高さを誇る。 当然、産業も西アンダルシアとは異なってくる。現在は事情も変わったろうが、ひと昔前まで、主要産業のひとつに、鉱業があった。ことにハエン、アルメリア、さらに隣のムルシア州まで及ぶ地帯には数多くの鉱山が作られ、鉱夫たちが働いていた。今なおこれらの土地には、鉱業にちなむ地名や銅像、モニュメントなどが残されている。夜っぴてツルハシを振るい、トロッコで坑道を運ばれ、しらじらと夜が明けそめるころようやく家路につくころ、彼らが口ずさむ唄は、いつしかカンテ・デ・ラ・マドゥルガーダ(暁の唄)と称されるようになった。それらはやがて、カンテ・フラメンコの仲間入りをし、自由リズムのタランタ、あるいはミネーラ(鉱山節)、またはカルタヘネラ(カルタヘナ節)という形式になっていった。この素朴な山歌が、ある日、ひとりの天才舞踊家と出会った。
★Comentario ひなたの香りがするような、明るいメロディー。いかにもラテン的で伸びやかなリズム。アバニコ(扇子)を駆使した華のある踊り。こうした要素だけを並べてみると、グアヒーラという曲種は一見、とても平和に思える。実際今回取り上げるように、グアヒーラの歌詞には往々にして、安楽で、不安などはどこかに置いてきたようなものが目立つ。いわば、功成り名遂げて、夢の暮らしを手に入れた人の歌、とでも言おうか。そうしたイメージでグアヒーラをとらえている人は決して少なくないのではないだろうか。 けれど、このレトラを見てほしい。 「とある静かな夜/聞こえるは/血と砂にまみれた/哀れな負傷兵のかすかな呻き/寝台の空きはなく/赤十字の助けもない/血の流れゆくさまに/勇敢な兵士は悲嘆にくれて/死が迫りくるなか/助けてくれる者もない」 まるでソレアかシギリージャのような重苦しさだが、これはれっきとしたグアヒーラの歌詞なのだ。歌ったのは名人カジェターノ・ムリエルことニーニョ・デ・カブラ。そう、実はグアヒーラには、19世紀後半植民地からの独立を目指したキューバとそれを阻もうとする宗守国スペインとの闘いの歴史も刻まれているのだ。功名を求めてキューバに赴いた義勇兵たちの多くが、祖国から離れた土地で命を落とした。平和の底には、いつもそこに至る犠牲がある。
★Comentario マラガで最も由緒あるペーニャ・フアン・ブレバの2階には、フラメンコの歴史にちなむさまざまなものが展示されている。中で目を惹くのが、2挺のギターだ。1挺はピカピカのボディ、弦もきっちり揃った美しいギター。もう1挺は、かなりくたびれたボディに弦も半分どこかへ行ったような、相当の年季を感じさせるギター。前者がペーニャの名前にもなっているフアン・ブレバのギター、後者がラファエル・フローレス・ニエト、通称“エル・ピジャージョ”のものだ。それでも人びとはその古ぼけたギターを大切にし、持ち主を偲ぶ。そのギターを提げて街をぶらつき、歌をうたったヒターノ“エル・ピジャージョ”を。彼の歌は“カンテス・デル・ピジャージョ”と呼ばれ、それが時を経て、タンゴ・デ・マラガの原型となった。 元々のカンテス・デル・ピジャージョは、割と速いテンポで語るように歌われる。マラガきってのヒターノ街ペルチェルに生まれ、若い頃から放浪生活をいとなんでいたエル・ピジャージョが、一旗揚げようと赴いた中米キューバ。そこで耳にしたグアヒーラを下敷きにした、とも言われている。ハバナとマラガ、ふたつの港町をいわば歌で結んだエル・ピジャージョ。タンゴ・デ・マラガの根底には、彼の魂が軽やかに生きている。
★Comentario 深みを具えた12拍子、「ミの旋法」、そしてそこに歌い込まれた人生模様……あらゆる意味で、もっともフラメンコらしいと言ってさしつかえないのが、ソレアかもしれない。そのため学者や愛好家はこの曲に、「歌の母」の称号を与えた。そこから発展して、「フラメンコの母」と呼ばれることもままある。綴りはSoleáで、これはSoledad(孤独)がアンダルシア式に転訛したもの。元のアクセントの位置を明確にするため、最後のaの上に臨時のアクセント記号が打たれている。古くはsolearesと複数形で書かれることもよくあった。 コンサート・フラメンコ・ギタリスト、マヌエル・カーノによれば、初めて文献に「Aire popular de Andalucía(アンダルシアの調べ)」として現れた1曲、名ギタリスト、フリアン・アルカスが奏でたこの曲が、ソレアのルーツだという。また歌としては、独特の味わいを持つ踊り歌ハレオが大元になったとの説がある。ともあれ、アンダルシアそれぞれの街に特徴的なソレアが生まれ、アルティスタが誕生していった。トリアーナのラ・アンドンダ、ウトレーラのラ・セルネータ、アルカラのエル・デ・ラ・パウラ、カディスのエル・メジーソ……彼らの残した歌は今なお受け継がれ、土地の香りとともにフラメンコの根源的な匂いを運んでくる。