日本で唯一のフラメンコ音楽ショップ「アクースティカ」が、目黒から中野にお引っ越し。これに伴い、新スタジオ「中野スペースリンク」が、オープンしました。中野駅北口から歩いて3分の便利な場所。イベントの開催、スクール事業、多目的レンタルスペースとして、運営していきます。フラメンコのレッスンはもちろん、ライブやイベント、セミナー、パーティ会場としても利用できます。「“Link”というのは“輪”とか“つながる”という意味。フラメンコを核にして、人と人、人とアートが出会い、つながり、楽しい時間を共有する場所にしていきたいですね」とアクースティカの加部洋さん。10月半ばからは、トップアーティストによるオープン記念イベントを開催。アクースティカが運営するシティオ塾入会金0円キャンペーンも実施中。 〈中野スペースリンク〉 スタジオ営業時間 9:00~23:00 受付窓口 11:00~19:00 E-Mail:info0915@n-spacelink.com ☎03-5380-5066 http://www.n-spacelink.com/ 〈アクースティカ〉 営業時間 11:00~19:00(日・月・祝定休) E-Mail:info@acustica.jp ☎03-6454-0662 シティオ塾の詳細情報はフラメンコ・シティオ
最近、グルメ番組などで紹介され、若者にも話題の街、「赤羽」。スペインバル Circo(シルコ)は賑わいを見せる1番街から、少し奥まった静かな場所にある。ス ペインの国旗と赤い扉、キラキラした明かりが見えたら、そこがCirco だ。 「Circo」とは「サーカス」の意味。「昔のサーカスって、電飾がキラキラして、ピエロがいて、全くの別世界。そこに行くのが楽しみでしたよね。そんなワクワク感を大切にしたい、この店に集う人たちが、楽しんで、疲れもふっ飛んで帰ってもらえたら、と思ってつけました。」と、店長であり、シェフでもある溝口さんは語る。 店内は4人席のテーブルが4つとカウンター席。こじんまりとしているが、木のぬくもりを感じるインテリア。白く塗られた木壁に描かれた、少し懐かしい雰囲気の、サーカスのイラストが印象的だ。 「子供連れのお母さんにも来ていただきたくて、椅子の高さも低めにしたんです。」 と溝口さん。子供連れで出かけられるレストランは、まだ少ない。しっかりしたものを 「食べる楽しみ」を味わってもらいたい、ならば、自分たちでそんな店を作ってしまおう、と奥様と相談してコンセプトを創ったのだそうだ。 子供連れはもちろんOK。ママ会や貸切で利用されることも多いという。また、夜のCircoの灯りは柔らかく、居心地が良い。ただの酒飲みにも優しいのである。 料理も、そんなシェフの気持ちが反映されてか、それぞれがしっかりとして、暖かみが感じられるものばかり。特に大きなホワイトマッシュルームの料理はおすすめで、その大きさを見せていただき、びっくり。「このマッシュルーム、「大きい!」という点でもワクワクする感じがするでしょう?」 とのことだが、甘みがあって美味しくて2度びっくり、のキノコだった。その他、人気のパエリヤも旨味が凝縮、誰もが美味しいと感じるであろう優しい味だ。 「ご馳走を年に1回、かしこまって食べる店ではなく、週に3回通ってもらえる店でありたい。」というCirco、地元に愛され、根付いた存在になるのが目標だという。 その後の夢は?との問いに、「同じ規模の、地元に根ざした店を3件くらい持つ」のが夢と語る溝口さん、こんな店が自分の町にもあれば良いなぁ、と思う夜であった。
教室に通い始めて数か月が過ぎたころ。クラスの雰囲気にも慣れ、レッスン構成や内容も少しずつ理解しつつ、フラメンコに勤しむ日々・・・。 週1回、もしくは2回の限られたレッスン時間にどれだけのことを習得し、 次のレッスンにつなげられるか・・・忙しい毎日を送る私たちにとって、その日に習ったことを翌週のレッスンに反映させる、というタスクさえ、なかなかままならないもの。ただ、自身の上達のためはもちろん、個々の力量は違えど、 同じ教室で肩を並べている仲間がいる以上「レッスン(指導)に遅れをとらない」 努力は不可欠です。初級クラスのレッスンメニューはそれほどハードじゃないから・・・という気持ちで復習を怠った結果、のちに「もっと基礎をしっかりやっておけばよかった!」と後悔することにもなりかねません。 ココまで読んで、「そもそも趣味として始めているのに、レッスン日以外で自主的な練習って必要なの?」と感じたアナタには、自身の幼少時代、もしくはわが子の習い事を思い返してみてください。たとえばピアノ。母親や先生に「短い時間でもいいから、毎日ピアノに向かいなさい!」と説教された経験はありませんか?習い事に大事なのは、フラメンコに限らず「とにかく、毎日触れる」ということ。仕事や家事の空き時間にパソ、ブラッソの練習、入浴後のストレッチ、 通勤途中にコンパスのイメージトレーニング・・・などなど、忙しい中でもフラメンコに触れる時間は作れるはず。 Quien la sigue, la consigue 継続は力なり。 何事も小さな積み重ねこそが、上達のカギなのです!
ギタリストの柴田亮太郎さん、カンタオールの阿部真さん、バイオリニストの森川拓哉さんらが語る、フラメンコというコミュニケーション。共演者の心を知れば、フラメンコはもっと面白くなる! 他者から学び、そして自分らしさに開眼したとき、私たちはより自由に生きていけるはず。 Flamenco × Life 7 【最終回】 フラメンコというコミュニケーション 映画「VENGO ベンゴ」では、コンパスにのって靴音を響かせながら、その靴音でもって周りの人たちとコミュニケーションをとる、アンダルシア地方の「日常にあふれるフラメンコ」が描かれている。普段着のまま路上で踊るその姿は粋で、心弾む風景だ。そもそも、フラメンコの核といわれるコンパスとは何だろう。私がその飽くなき探究心を持って、萩原淳子さんのようにフラメンコと向き合い鍛錬すれば、クアドロ(額縁の意。ステージ上の椅子に出演者全員が腰かけ、一人ひとりソロを踊る形式)で踊るレベルまで到達できるのかもしれない。私の場合はその疑問を携えて取材をし、多くのアルティスタや練習生に話を聞くことで、少しずつフラメンコを理解してきた。けれど、いまだに私にとってつかみがたい「コンパス」。そして、このコンパスのうねりをとらえずしてフラメンコの世界には溶け込めない。恐らく、フラメンコを踊る上で上達する秘けつは三つあると思う。一、耳が良い二、音楽的センスがある三、舞踊における身体的能力が高いこの三つのうちのどれか一つで良いからずば抜けて優れたものがあれば、それほど苦労しなくても楽しく、自然にフラメンコを踊ることができると思う。あるいは、この三つの能力がバランスよく備わっていれば、である。萩原さんのクルシージョ「マルティネーテクラス」を受講して実感したのは、自ら一定のリズムを刻み続けることの難しさである。だが「一定のリズムを刻む」のは、毎日欠かさず練習することで習得できそうである。難しいのは、実際にはそのリズム(コンパス)は膨らんだり、縮んだりしながら回っていくということである。自分一人で一定のリズムを刻み続けるのも鍛錬がいるが、伴奏者や共演者と共に膨らんだり、縮んだりするリズムを共有するのはもっと修行がいる。そして、大切なのは、そのリズムを心地よく感じながら、となれば……。フラメンコには数十種類のリズムがあるといわれている。ソレアに代表される三拍子系と、ファルーカ、タンゴ等の二拍子系に大別されるというが、例えばシギリージャなどは「四分の三+八分の六」の複合形だ等といわれると、もう訳が分からなくなってしまう。フラメンコに限らず、その土地に伝わる民謡の多くはもともと記譜されて残っている訳ではなく、その独特のリズムや歌が口三味線のようにして弾き継がれ、歌い継がれてきたものを、後世に伝えるために書き記そうと譜面に残されたものだから、リズムが持つうねりやニュアンスを理解しようというのは、根気と時間が要る。だからこそ、フラメンコは一度手をつけると「一生の趣味」になってしまうのだ。コンパス、そしてフラメンコとは何かを理解するのに近道はないということを、プロの歌い手やギタリストが教えてくれる。ギタリストの柴田亮太郎さんは一九七五年生まれ。さまざまな公演の伴奏に引っ張りだこで、その独自のスタイルからきっと確たる自らの音楽的世界を持ち合わせているのだろうと推察していた。だが、取材でお会いした柴田さんが、フラメンコについて語る言葉はとても謙虚だった。「フラメンコって、いわゆる音楽じゃない。アンダルシアの文化であり、彼らのあり方そのものなんですよ」と話す柴田さんは、二十代後半の三、四年間をスペイン・ヘレスで過ごしている。そこで触れた土着のフラメンコに心底感動したという柴田さんは、だからこそ「理解したい」という強い衝動に駆られた。「最初は分からないことばかりだから、まず『分かること』をクリアにしていくしかないと思ったんです。具体的に理解できることってたくさんあるでしょう。 例えば、歌の歌詞を訳してみる。そこで初めてスペイン人との歌詞のとらえ方のギャップを知って、歌詞やリズムのとらえ方について彼らに質問する。そうやって、フラメンコについて何が分からないのか、決定的に違う部分までクリアにしていった」フラメンコという深く、果てしない広がりを持つ文化の前に圧倒されそうになるが「分かりたい、理解したい」という気持ちが、小さな石を積み上げてゆく。時には、所詮自分は日本人で、スペイン人が内包する、あのコンパス感はどうしたって身につくはずがない、と半ば諦めかけたりもする。そんなときに、フラメンコギターの世界ではプロとして活躍する柴田さんの言葉は、大きな励ましになる。「スペイン人のようにならなくていい。勉強して、少しずつ分かっていけばいいんです」カンタオールの阿部真さんは「カンテは、自分にとって歌というよりリズム、音楽ではない何か。だから、歌おうと思えた」という。多くを学び、努力してフラメンコに近付いた人たちでも、ずっとその世界を探し続けている。フラメンコを学ぶことは、外国語を習得するのによく似ている。文法を学ぶように、コンパスや歌についての決まりごとを覚え、語彙力を増やすように、パソや振付をひたすら繰り返し練習する。そして、パソや振付を完璧にマスターしても、本番という実践を積み重ねなければ、踊りこなすことは出来ないし、ましてや共演者たちと「音」を通じてのコミュニケーションをとることはできない。自分一人で踊ろうとするのではなく、周りにいる人たち、ギタリスト、歌い手と呼吸を合わせながら、相手のことをよく見ながら、自分の表現でもって問いかけるのである。私に、その「舞台上のコミュニケーション」を非常に分かりやすく垣間見せてくれたのが、バイオリニストの森川拓哉さんである。森川さんはジャズ、フラメンコからブラジル音楽、ラテン音楽など幅広い分野で作曲や演奏活動を行っている。フラメンコとバイオリンの組み合わせは、初めて聴いた時とても新鮮で、現代フラメンコの流行なのかと思ったが、森川さんによると「ジプシーの音楽は、インドでもアラブでも東欧でもバイオリンが入っています。スペインに伝わったものは歌が中心になりましたが」ということらしい。ふつうに決まったヌメロ(曲)を踊るだけでも大変なのに、即興で音を入れ、尚かつその音によってより「フラメンコらしく」磨き上げるなんて、森川さんのバイオリンは私にとって神業でしかない。それが可能なのは、彼自身が様々な民族音楽と共演し、即興理論を学び、表現の幅を広げてきたからであろう。 森川さんは四歳の頃から桐朋音大付属の音楽教室にてバイオリンとピアノ、作曲を習い始める。母親はピアノ教師、父親はサラリーマンだったが、バイオリンは自分から「習いたい」といったそうだ。中学三年時には作曲をメーンに手がけるも音楽の道には進まず、私立の進学校を経て早稲田大学社会学部に進学する。ジャズ・バイオリンは、大学に入ってから個人的に始め、オーケストラ部ではクラシックを奏でた。森川さんは、人の話を聞くのがうまい「聞き上手」だ。友人の、とりとめのない悩みをうんうんと聞きながら、一人のときは常にレポート用紙にペンを走らせて何かを書き留めている。作曲中のコード表、映画に出てきた美味しそうなメニューなどなど。「やりたいこと、やらなければいけないことが本当にたくさんあるので、自分の頭の中を整理しておかないと気持ち悪い」大学四年の時、大手新聞社の内定をもらいながらも「一番、自分にしかできないことをやろう」と音楽で生きていくことを選ぶ。「音楽をやってきたことで、他の人とは違う、自分に自信が持てた」と話す森川さんは、ただバイオリニストになるということよりもう一歩踏み込んで「自分のバイオリンだからこそできる可能性」を探し求めた。当時ジャズやフラメンコの世界でバイオリンをやっている人間が少なかったことや、作曲の勉強を続けていたこと、即興演奏が得意という自分の個性を生かそうと、大学卒業後アメリカ・バークリー音楽院への留学を決意する。森川さんはアメリカでジャズ理論や即興理論を徹底的に学んできた。そして、これまでに共演してきた民族音楽は実に三十カ国を超える。「ジャズはモダンでお洒落。東欧の音楽は土くささがある。ラテン音楽は陽気だし、そういった音楽の引き出しをいろいろ開けて、自分の表現の幅を広げてきた」例えば、新国立劇場バレエ研修所の発表会で小島章司さんが振付したスパニッシュ・ダンスでは「ファンダンゴの前にクラシックのこの曲を入れたい」といったリクエストに応じ、入交恒子さんの公演では(フラメンコの)タンゴの前に、アルゼンチン・タンゴの曲を作って入れたりするのである。ある日、都内のタブラオに森川さんが出るというので観に行った。公演の場合はゆっくり作曲する時間的な余裕があるが、タブラオライブでは通常、本番直前のリハ一回きりでステージに上がる。初めて共演する人もいるから、オーソドックスな構成、曲種をやることが基本である。今まで様々な民族音楽と共演してきた森川さんだが、その中でも「フラメンコは特別」だという。民族音楽の中では一番好きで、かけている時間もエネルギーもダントツだという。アレグリアスのような華やかで明るい曲と、ソレアのような心にしみいる曲では音色(おんしょく)を変えるし、踊り手の雰囲気や音の好みに合わせて弦の音を出すよう心がける。本番が始まると、森川さんの耳はギターとカンテに集中し、視線は踊り手に注がれている。音楽を聴きながら、コンパスをふまえながら、そして「ここだ」というところでバイオリンの弓を震わせる。その、森川さんの研ぎ澄まされた集中力と、思わずはっと息を呑むような美しいバイオリンの旋律が周囲に溶け込み、浮き立つ瞬間が刹那感じられて、客席にいる私も手に汗握ってしまう。そして弓を構えていても、なかなか踊りに入れないときもある。集中したまま、場が流れる。フラメンコのステージに、バイオリンの定位置はない。少なくとも、まだ日本では。そして、森川さんの使命はバイオリンを美しく弾くことではなく、共演者の魅力を最大限に膨らますことなのだ。バイレも、カンテも、そしてギターも、艶やかな音色に触発され、いつもとは異なる風景を見、さらに奥深い表現で応えてくれる。音で問いかけ、相手の中から何かを引き出す。感じたほうも音で応える。カンタオールの阿部真さんにフラメンコの即興的な要素についてたずねたとき、阿部さんはこういった。「僕ら日本人は、言葉もコンパスもまだ自由自在に扱えないもの同士が(フラメンコを)やっているわけで、それ以外のもの、テクニックやリズム感をよほど磨いていかないと即興なんてできない。さらに、共演者の人柄をよく知ったうえでね」 せいぜい半年に一度の共演で、一回リハをやって本番をやるというのは、辛くいえば決め事をするだけのこと。「本当の即興って、相手のクセとか技術とか感性とかを知り尽くして、リハも何度もやって、それでも尚本番で予想外の展開になったときに何かを創り出していけることをいうんじゃないかな」叩き上げでカンテを身につけてきた、そして真正面からフラメンコと向き合ってきた阿部さんらしい見方だ。一方、都内の有名なスペイン・レストランで長い間ステージのブッキングに携わってこられた方は、こんなことをいった。「毎回仲良しメンバーで構成されているステージでは、同じ観客しか呼べない。だから、できるだけ個性も雰囲気も異なる踊り手を組ませて共演してもらう。そのほうが観客にとっては、エキサイティングなステージになる」即興に応えるのに、高い技術は必要だ。そして、地道な練習の積み重ねだけでは、その技術は身につかない。フィエスタ(祭り)のような、その場のノリや空気で場が進行する中で、全身全霊を集中させて答えを見つけ出す中で、フラメンコによるコミュニケーションが身についてくる。フラメンコを始めてわずか二年でタブラオにレギュラー出演するようになった踊り手の篠田三枝さんは、駆け出しの頃の失敗を振り返る。「踊りを通してバックのギタリストや歌い手と会話しなければいけないのに、それが通じなかったり会話にならなかったことがたくさんあります。本当に、数え切れないほど」でもね、と篠田さんは言葉をつないだ。「月七回も本番があったら、どうしたらいいたいことが相手に伝わるのか、学ぶんです。言葉ではなく、踊りでね。まずバックの会話を聞くことから勉強していこうと思いました」それまでは自分の踊りのこと、振付や足の運びのことばかり考えていた。妊娠中、バックでパルマ(手拍子)を叩いていた時期があり、その経験も伴奏者の気持ちを理解する上でとても大切だったと話す。リズムや振付で、相手(共演者)の問いかけに応える。そこに言葉(セリフ)は介在しないが、究極の意思疎通がある。そして、それを可能にするのが「私はこう踊りたい」「音楽をこう表現したい」あるいは「私はこう生きたい」というアルティスタの強い意志と、高い技術だと思う。 フラメンコな生き方 私がスペイン人舞踊家のベニート・ガルシアさんを初めて取材したのは二〇〇六年の春である。モダンな振付と、高速のサパテアードが奏でるまさに音楽としてのフラメンコは、一瞬のゆるみもなく観ているものの心に揺さぶりをかける。ベニートさんのステージには、彼独自の音楽観や美意識が凝縮されていて、いつ観ても新鮮な感動がある。スペイン・アンダルシア地方、コルドバ出身のベニートさんは十五歳でプロデビュー。小松原庸子スペイン舞踊団のスペインでのオーディションなどをきっかけに来日し、同舞踊団の海外公演にも数多く参加、スペインではマリア・パヘス舞踊団に所属していたこともある。一九九九年より日本に拠点をおき、現在は東京・赤羽に自身のスタジオを構え、数多くの生徒を教えている。ステージに一切の妥協を許さないベニートさんのレッスンは厳しいが、それでも受講希望者が後を絶たない人気スタジオである。日本語も堪能で、日本の文化や社会を理解しながら「アンダルシアの文化であるフラメンコを伝えたい」と十年以上、日本という異国で奮闘してきた方である。一一年三月に東日本大震災と原発事故が起こり、多くの外国人が日本を出国し、日本人でも関西や沖縄に移住すると半ば本気で口にする人が私の周辺でも相次いだ。そんな中、ベニートさんが変わらず赤羽で活動し続けていると聞き、彼の日本に対する正直な心境が聞きたくてスタジオに伺った。日本で結婚し、家族を持ったベニートさんは、なぜ日本に留まり続けるのかという私の質問に対し、明快に答えた。「私の家はここにあるし、家族もいる。私の帰るべき場所は、もはや日本だからね。短期間の仕事や滞在で来ている外国人が自国に戻るのは当然のこと。日本は、私に様々なことを与えてくれた。奥さんと同じ(笑)。良いときも、悪いときも付き合わなきゃいけない」原発事故に関しては、インターネットを通じて自分が信頼できる情報を入手し、日本の原発の仕組み、チェルノブイリ事故との違いなどについても勉強し、過熱報道するスペインメディアに抗議のメールを送ったりもしたそうである。日本とともにあろうとするベニートさんの姿勢は揺るがないものだった。私は、日本で成功したらいつかはスペインに帰るのだろうかと漠然と考えていたので、ベニートさんの「私の帰るべき場所は、もはや日本」という言葉は意外だった。それは、フラメンコを教えるためにベニートさん自身も日本の文化を理解し、日本社会とつながる努力を惜しまなかった結果なのだろう。〇六年の取材のとき、ベニートさんは「スペインの心をそのまま日本語で伝えたいと思っている。それが、私の毎日の戦い。生徒さんに伝えたいこといっぱいあるのに、まっすぐには伝わらない」と心情を吐露した。ベニートさんはその後、そうした文化の違いや自分のスタンスをどう貫くかという問題に正面から取り組み、一つの到達点を見出したのが震災後の七月に行われたテアトロ公演「証 AKASHI」に見事に結実していた。和と西の出会いをテーマの一つに据えた創作フラメンコだったが、十数年かけて日本と向き合ってきたベニートさんが、やっと「日本の心」を受け取ったという象徴的なシーンがあり、それはとても印象的で感動的だった。「私は踊りを続けるためにどうするか、ということを軸に(人生を)決断してきた。フラメンコがきっかけで日本に来て、いろいろな人と知り合い助けてもらい、ここでフラメンコを教えたいと思って今に至っている。父に、やると決めたら最後まで一つのことをやれ、といわれていたしね。問題が起きても後ろに戻るのではなく、問題を乗り越えて前に進め、と」かつて経験したことのないような大震災の被害に、多くの人が悲しみに沈み、そして自分の使命や成すべきことと対峙したと思う。ベニートさんは「証 AKASHI」公演について当時こんなふうにいっている。「人生の曲がり角の瞬間を一つずつのシーンで創っている。自分の『証』なんだけれど、観ている人にとっても人生の『証』が感じられるような。今だからこそやらなければと強く思っています。これができるのは、生きているおかげ。悲しいから、あれもしない、これもしない、ゼロ。でも、そうやって何もしないことで、一カ月後、彼らの手助けになりますか? そして、誰かを助けるためには、自分の中に精神的な余力、溢れるものがないとダメ。頑張れるための何か。悲しみだけに目を向けていたら、絶対に力は湧いてこない。何に触れたら自分の心は動くだろうか」そして、こう続けた。「被災地の復興には長い時間がかかる。だからこそ、彼らの力になりたいのなら、まず、自分の人生をしっかり、変わらず生きていくことが大切」「何百人というプロの踊り手がいるよね、フラメンコの世界で。一人ずつ、違う。雰囲気、足の打ち方、手の動き、すべて違う。リズム感が全く無くても、雰囲気がほかの踊り手の三百倍あるとか。いろんな動き、表現の仕方がある。選ぶのはあなた自身。自分に自信を持って。自信がある人はどんなふうにやってもフラメンコに見えるんだよ」スペインと日本。同じように、その二つの国を経験しながらフラメンコと向き合ってきたAMI(鎌田厚子)さんは、二十代の頃、スペイン留学中にこんな体験をした。「スペインで舞台の仕事をもらったの。でも、私が採用された代わりに、それまでそこで踊っていた十代の踊り手がはじかれた。その子は私の目をまっすぐに見て『私は家族を養っていかなくちゃいけない。その仕事を代わって』っていったの。私はとてもそこでノーとはいえなかった。もちろん、その仕事は降りたわ」趣味で始めたフラメンコが、この国の人たちのわずかな仕事を奪う可能性もあるのだと気がついた瞬間だった。AMIさんは結局十五年間スペインに滞在し、プロの踊り手としての技術や姿勢を磨き上げた。〇四年からはドラマーの堀越彰さんらと銀座博品館劇場で共演し、フラメンコとジャズをクラシックやラテンなどにアレンジする新しい舞台にも挑戦している。「異分野の人たちとの共演はとても刺激的。フラメンコって、その時自分が持っているネタで勝負しなくてはいけない。でも、新しいジャンルの人達と仕事をするとゼロから何かを作り上げていかなければいけないので、非常に難しいけれど、今まで築いてきたフラメンコのベースを元に、自分だけの自由な発想ができるのでとても面白い。それに、スペインをお手本にしなくてはいけない世界からも自由になれる」AMIさんにプロとアマチュアの境を聞いた。「たとえ技術は六〇%でも、プロとしての意識を持ってステージに立つことで最高の踊り手になっていく。技術的に完璧であることだけが、プロの条件ではないのよ。自分が出せる最高のもので勝負しているかどうか。人前にさらされて、磨かれていくということが大切なの」 一一年の春、次男がようやく三歳になり入園した幼稚園で母親同士の懇親会があった。地域の公民館を借りてのそのささやかな会の出席率は実に九割近かった。興味深かったのは「お子さんのことだけでなく、自分自身が今興味を持っているもの、趣味などがありましたらお話しください」と司会役のお母さんが気を利かせて話を振ると、半数以上の人がアロマやヨガ、ジャズダンスなど何らかの「趣味」について積極的に語り始めた。中には、パートタイムの仕事をしながら資格取得の勉強をしていると生き生きと話す人もいた。おむつのとれない赤ちゃんをあやしながら参加したお母さんは「私はまだ下の子に手がかかって、何の趣味もなくて……」と申し訳なさそうに挨拶した。学生時代、社交ダンスをやっていたけれど今はなかなか踊る機会がありませんと話す方がいた。私も「フラメンコが好きで、よく観に行きます」と話すと、知り合ってすでに四年の付き合いになるママ友から「下の子どもの手が離れたら、フラメンコをやりたいとずーっと思っているのよ」と思わず打ち明けられ、フラメンコの根強い人気を感じたりもした。少子化といわれる世の中だが、私の周辺、東京の北多摩地域では意外にも「一人っ子」家庭は多くない。ほとんどの人が二人、三人の子どもを抱え子育てに日々奮闘している。そして息子が通う幼稚園では、時間外の預かり保育を行ってくれることもあり、働いているお母さんもたくさんいる。かつては仕事に生きがい、やりがいを見出せたが、子どもが生まれ、現実には国が旗を振るように「仕事と子育ての両立」は理想どおりにはいかないことを痛感する。子育てをしながら仕事を続けることはできても、そこからこぼれ落ちる何かがある。大塚友美さんは「フラメンコは、自分がきちんと生きているということの証し」だといった。人生の中で出産や育児、介護、病気などがあっても、きちんと生きてさえいれば、フラメンコはついてくる。フラメンコ舞踊家の箆津弘順さんは自身のスタジオ発表会の挨拶文で、フラメンコ三昧の日々を送る練習生たちについて「あんた、いったいいくつなの…?」「こんなことばっかりやってて…他に大事なことがあるでしょうに!」と家族から苦言を呈されているであろう乙女たちをユーモアあふれる文章で擁護しながら、こう綴っている。「私は人生その人に必要な事が必要な時に必ず舞い降りてくるのだと信じています。そしてその人生、今この時の積み重ねに他なりません」と。箆津さんは二十七歳の時に「習い事がてら」軽い気持ちで始めたフラメンコに心を奪われ、勤めていた英国系証券会社を辞め、踊りの世界に飛び込んだ人である。フラメンコに接していて思う。自分に欠けているもの、足りないものと向き合いながら、前を見て歩いていける人は輝きだす。新人公演を終えた後、鶴幸子さんはいった。「フラメンコの場合、欠点ってその人の個性だったりする。だから人に注意されたとき、本当に直すことがいいのか、そのままでいくのか、自分で選ばないといけない。でも、他人から見たらやっぱり『欠点』だといわれ続ける。それをブレないでやり続け、鑑賞に堪えるものに昇華できるかだと思う。欠点を全て直し続けたら、つまらない踊りになるんじゃないかな」アンダルシアの乾いた土地に花開いた、フラメンコ。美しい四季があり、森と山を切り拓いて生き、海に囲まれた湿潤の国、日本。歌の響きが異なれば、それを聴いて舞う踊りもまた違ってくるはず。フラメンコと出会った私たちが、他者から学び、そして自分らしさに開眼したとき、もっと自由に生きていけるのだろう。(おわり)
小林弘子さん、入交恒子さん、大塚友美さんが出逢ってきた、スペイン・フラメンコの風景。偉大なアルティスタ、マエストロとの交流を通して見えてくる、異文化を踊ることの葛藤、尽きない魅力。1980年代~90年代、フラメンコのアルテは、スペインの土地に行ってこそ触れられるものだった。 Flamenco × Life 6 異文化を踊る 二〇〇九年春、フリーペーパー「ファルーカ」で、プロの踊り手に私的なエピソードを交えながら交流のあったスペイン人アルティスタについて語ってもらうという座談会企画が持ち上がった。有名なスペイン人アルティスタは数多くいるけれど、どうしたらフラメンコ初心者である読者に古今のアルティスタを印象深く読んでもらえるだろうかと考え、思い付いたのだった。そしてそれは、深く、広大なフラメンコの風景を、個人の記憶によってある一時代、ワンシーンを切り取る作業でもあった。ポイントは人選である。座談会なので、ゲスト同士が全く見ず知らずでは会話が弾むまでに時間がかかってしまう。ある程度顔見知りか、共演の経験があるか、あるいは渡西の時期が重なっている、同じマエストロに師事したことがあるなどの共通点があるほうが良い。まず、結婚、出産を挟みスペインで十五年間暮らし、一九九九年に帰国して現在は台東区にスタジオを構えて教授活動を行っている小林弘子さんに連絡をとった。座談会の趣旨を伝えると、小林さんは快諾してくださった。 座談会でお話しするまで、私は小林さんに直接取材したことはなかったのだが、小林さんに師事しグループレッスンなどで教えるまでになられた方に別の取材を通して知り合い「育児のブランクを乗り越えてフラメンコに復帰された、心の広い方」と聞いていた。そして、いろいろな方から評判を耳にしていた大塚友美さん。現在は、都内ではなく出身地の浜松に拠点を移して活動している生き方も興味深かった。同じく面識はなかったものの、やはりアフィシオナード(愛好家)の方から絶賛されていた入交恒子さんにもお会いしたいと思い、直接連絡をとると、お忙しい方ながら「喜んで」とお返事くださった。結局のところ、小林さんが大塚さんのパートナーであるギタリストの鈴木尚(たかし)さんに何度か伴奏してもらった縁があることや、セビージャの稽古場で小林さんと入交さんが顔見知りだったこと、入交さんと大塚さんは共演の経験があることが分かった。座談会は、五月に中野のスペインバル・モンキーパッドで行われた。三人とも、一九八〇年代から九〇年代にかけてスペインと日本を行き来し、現在ベテランとして活躍されている方たちである。八〇年代後半から九〇年代前半といえば、日本がバブル景気に沸き、過剰な不動産投資が繰り返された時期でもあった。一方でインターネットは現在のように普及しておらず、グーグルもユーチューブもない時代。フラメンコのビデオやDVDも、今ほど豊富に販売されていない。フラメンコのアルテは、スペインの土地に行ってこそ触れられるものだった。当日はお昼から横浜にある箆津弘順さんのスタジオを取材する予定もあり、JR中野駅に降り立ったのは座談会開始時刻ギリギリだった。箆津さんは碇山奈奈さんにフラメンコを師事し、その後渡西してスペイン人アルティスタに学んだほか、バレエも修め、小松原庸子スペイン舞踊団公演や岡田昌巳フラメンコ公演、マリア・パヘス日本公演など数々の劇場公演に客演してきた実力の持ち主である。箆津さんの理論的で充実したレッスンを取材し、脳内エネルギーをかなり消費した後、小一時間電車に揺られ、中野のモンキーパッドにたどり着く。一対一の取材ならともかく、私より人生経験も豊富で、名実ともにプロとして長らく活躍されている踊り手の方たちを前に、きちんと司会の役をこなせるだろうか。録音の不具合は発生しないだろうか等、とても緊張してきた。けれど心配は杞憂だった。座談会が始まると、というより正確には小林さん、大塚さん、入交さんがお店にいらっしゃった途端、三人はすぐに打ち解けてくださった。「私、昔、小林さんにファルダを譲っていただいたことがあるんです」「そうだったわね。セビージャを思い出すとあちこちの街角で恒子さんの記憶が蘇るのよ」小林弘子さんは一九五七年生まれ。東京・台東区で育つ。共立女子短期大学を卒業後、丸善石油に入社。二十歳でフラメンコを始め、二十四歳の時に初渡西しマドリッドのアモール・デ・ディオスでレッスンを受けている。夏には、アンダルシア各地のフェスティバルを見てまわるなど「ここでしか見られない」熱いフラメンコを体感した。八六年、二十九歳の時スペインで暮らし始め、翌年スペイン人カンタオールのファン・ホセさんと結婚する。夫は十七歳年上だった。「優しそうな方でしたよね」と入交さんがいう。「私はスペインで十五年間暮らしたけれど、長男のアントニオを妊娠してから六年間はまったく踊っていないのよ。家の目の前に、ファン・ホセが所属するスペイン国立バレエ団の稽古場を見ながら。育児に追われて、その上子どもは二人とも喘息で、全然レッスンの時間はとれなかった。主人も子ども第一の人だったから」意外だった。結婚前に「スペインで一緒にフラメンコをやろう」という夫との約束は、どこかに消えていった。小林さんが胸のうちに抱えていた葛藤は、想像するに難くない。それでも、踊ることへの想いは絶ちがたかった。「娘のカルメンが幼稚園に行きだしてから、私はカルメラ・グレコに習い始めたの。毎朝五時半に起きてお弁当作って、子ども二人を日本人学校に送って、帰ってきてメルカド(市場)に行って掃除、洗濯、食事の支度をしてスタジオに駆け込むという毎日。午後一時にスタジオに着く頃には疲れはピークだったけれど、レッスンは本当に楽しかった。レッスンが終わって、子どもを学校に迎えに行って、その後宿題をさせて。もう夜の九時になると疲れて倒れそうだった。二年間、毎日レッスンに通ったんだけれど、もう来週からは(貯金が尽きて)月謝が払えない、でもカルメラの踊りはすごく好きだから見学させて、と言おうと思ったその日にカルメラが声をかけてくれたの。『お金、どう?大丈夫?』って。事情を話したら『何言っているの、毎日レッスンに来なさい』って。その後も二年間、彼女は無償で教えてくれました」夫ファン・ホセはジプシーの血を引くフラメンコ・ファミリー。フラメンコはお金を稼ぐためのものであって、お金を払って習うものじゃないという考え方だった。「ファン・ホセと、カルメラの妹のローラ・グレコは同じバレエ団だったから、彼の収入がどのくらいで、どんな性格で、私がどんな生活しているのか、みんな知っていたのね。私は、本当にカルメラには感謝していて、人間って順風満帆になるとそういう気持ちを忘れてしまうから、日本に帰国した時、私のスタジオに彼女の名前をつけたんです」スペインでは、フラメンコは生活の中に根付いているものであり、だからこそ、日本よりずっとシビアに、それは生活の手段としてもとらえられている。そういう温度差について、入交さんはこう話してくれた。「そうした文化の違いはありますよ。それで、私たち日本人がそういうカルチャーを知らないだけで(若い頃は)勝手に傷ついたりしてね。どっちが悪い、とかじゃなくてね。スペイン人と付き合うとカルチャーショックの連続で、だんだんね、あ、そういうことなんだって、わかるようになってくる。その繰り返しですよね。異なる文化を理解するって」 入交恒子さんは一九六一年生まれ。高知県の出身で、幼少の頃よりモダンバレエを学んできた。「はじめからフラメンコがやりたかったの、十一の時から」明治学院大学に入学と同時に上京し、八〇年より小島章司さんに師事。小島さんのもとで代教を務めながら舞台活動に参加し、八六年、二十五歳の時にスペイン政府による奨学生として一年間渡西する機会を得る。翌八七年帰国し、コンクルソ・デ・アルテ・フラメンコ・東京に出場し奨励賞を受賞。小松原庸子スペイン舞踊団に入団し、九二年に独立するまでスペインでの小松原舞踊団公演に多数参加している。「私は、小島章司先生のお力添えを頂いて、スペイン政府の奨学生として初めて渡西した時、アモール・デ・ディオスに着いていろんなクラスを見たんですけれど、その時カルメン・コルテスの弟さんがギタリストでいて、知り合ったんです。マリオ・マヤが来日したとき、カルメン・コルテスも一緒に来ていて、すごい人だって評判は聞いていたんです。きれいだけど、とっても野生的で」「当時、いなかったですよね、ああいう雰囲気の人」と小林さんがいう。「そう、その野生的な雰囲気に惹かれて、そういう匂いがしたのは彼女だけだったの。週五日クラスレッスンを受けて、個人レッスンもとって。日曜日は闘牛に連れて行ってもらったり、スペイン人の習慣とか、考え方とか、一緒に過ごす中で教えてもらった気がしますねぇ。レッスンの中で技術を教わるだけではなくて、ブレリアを学ぶならヘレスに行かなきゃ、とか、後に出会うんですけれど、マヌエラ・カラスコのこういうところを見ておきなさい、とかね」踊りの技術だけではなく、フラメンコの見方なども教えてくれるカルメン・コルテスは特異な存在だった。「とても開かれていた人でした。彼女のアドバイスが心に残って、それをやり遂げるのに十数年かかりましたけれど。ヘレスでも素晴らしい先生に出会えたし、そこに行かなければ感じられないものがあって、そこに導いてくれたのがカルメン・コルテスなんです。十年後(九六年)にまた、彼女のクルシージョに参加するんですが、その時は昼間はレッスン、夜はフィエスタで生徒に必ずブレリアを踊らせる。ギタリストや歌い手を呼んできて。そのクルシージョには五、六年間、毎年通いました。数多くのアルティスタの中に身を置くという貴重な体験をさせてもらいました。でもねぇ、厳しかったですよ、個人レッスンでは。音の聞き方で、この『一』というところでどの辺に音が入るかって(笑)。コントラ・ティエンポ(ア・ティエンポ【表】に対して反対【裏】に打つリズム)で入れてるつもりが『ちょっとこっち寄ってる!』って、ものすごく厳しくて。最初は、いわれていることが分からないですよ。え?ちゃんとやってるじゃない、って(笑)」大塚友美さんは一九六三年生まれ。十代後半からロックバンドを組み、音楽の世界からフラメンコに入っていった。「当時はキーボードを弾いていて、無国籍音楽が流行っていたこともあって、曲作りの素材を探していたんです。でも、フラメンコに出会って、あ、これは身体(踊り)から入ろう。そこから出てきたものが、自分にとっては本物だって思って」 チアダンスやインド舞踊、ジャズダンスの経験もあったので、踊りに対する素養はあった。二十歳でアルテフラメンコの沙羅一栄さんに師事し、三年ほど習う。一九八八年には単身セビージャに渡り、一年間スペインに滞在している。「渡西して最初はコンチャに、その後ファルーコに習って、やはり彼との出会いは大きかったですねぇ。とても優しくて、あたたかい人だったんですよ。レッスン自体は結構放任主義。足ひとつ教えたら、後はできるまで放っておかれる、って感じで。彼はずっと横に座ってリズムをとっている。できるところまでやってみな、という感じで。それで、アドバイスしてくれる言葉が『柳のようにしなるんだ』とか『鳥が大きく羽を広げるようにするんだ』とか。自然への尊敬の気持ちがあって、私はとても共感したんです。彼の存在そのものが百獣の王みたいな感じで、皆からとても尊敬されていました。ヒターノの中では、ファルーコがいる、ということをものすごく誇りにしているのが切々と伝わってきて。彼は、誰にも真似できないようなウニコ(唯一つの)な芸を持っていたんですが、その芸は周りにいる家族やヒターノ、みんなのものだったのね。彼が自分のアルテだけに固執したら、ああいう踊りにはならなかったんじゃないかな。彼は恐らく、稽古場の鏡に一人向かって練習する時間よりも、家族や自分をとりまく社会の中に身をおく時間のほうが多かったんだと思う」そう語ってくれた大塚さん自身、九五年にギタリストの鈴木さんと結婚し、二〇〇〇年妊娠と同時に故郷の静岡・浜松へと活動拠点を移している。田舎で子どもを育てたい、食を含めて「生活する」ということをもっと大切にしたいと思ったからだ。この時すでに日本フラメンコ協会第一回新人公演(九一年)で奨励賞を受賞し、都内のタブラオや劇場公演に数多く出演して踊り手としての実績も積み上げていた。ならば尚のこと、東京を離れることに後ろ髪引かれる思いは生じなかったのだろうか。「フラメンコは、自分がきちんと生きているということの証し。きちんと生きてさえいれば、フラメンコはついてくる」そしてその言葉通り、大塚さんは浜松という土地や文化を愛しながらフラメンコと共に生き、その姿勢や活動が評価されて〇八年度、「浜松ゆかりの芸術家」に選ばれている。「スペインでも今、芸がどんどん個室化しているような気がします。稽古場で、鏡の中の自分とまんじりともせず向き合うというのは、芸人だったら通らなければならない道かもしれないけれど。それは、自分の精神世界を広げることにはなっても、フラメンコの世界は広がらない気がするの。だから、スペイン人の踊りでも、その人個人の世界しか見えてこなかったりすると、あ、そうじゃないものが見たいって思う」と大塚さんはいう。小林さんもファルーコの存在感を覚えていた。「ファルーコの生命空間が広い、というのかな。ある物理的な場所にはとどまらない存在感がありましたよね。そして、彼のヒターノとしての使命感。彼が頑張ることで、ヒターノの社会が何かを訴えていく力を得る、というような。彼はもちろん、意識してはいないけれど」そうした、日本とは異なる世界との接触は、それぞれに大きな投げかけを残した。「私は、そういうヒターノの世界の踊り手にすごく憧れもして、でも、知れば知るほど遠のいてしまうということもあって、自問自答です」と入交さんはいう。初めてスペインで一年修業して帰った時、一生懸命踊りのノウハウを身につけて帰ったつもりが、東京でスペイン人と一緒に仕事を始めるとまた全然違う世界が見えてきて、実践の必要性を思い知らされたと入交さんは振り返る。「その結果、彼らアルティスタ達との交流もふえて、だから余計、そういうふうにギャップを感じるときがあるのかもしれないですね。人によっては『彼女は私達と同じような感じ方をする』といわれることもあって、だいぶ慣れてきたかなぁとは思いますけれど」入交さんは九二年に独立し、自身の舞踊クラスを開講するようになってからほぼ隔年のペースで劇場公演を行っている。二〇〇六年、〇七年と続けて、草月ホールで行ったコンシエルト・フラメンコ公演では、二年連続して文化庁芸術祭参加公演に選ばれ優秀賞を受賞している。そうした劇場公演の際、パートナーでもあるギタリストの高橋紀博さんとの共演はもちろんだが、他のメインの共演者がスペイン人アルティスタで占められているのも、入交さんの舞台の見どころである。ひとまわり年上の高橋さんと結婚した入交さんは、仕事の上でも重要な伴侶である高橋さんについてこう話してくれた。「毎回公演で、一緒に試行錯誤しながら創りあげていくんですけれど、音楽的な見地から非常に得がたい存在です。それから、私は地方の仕事に行くことも多いので、そういう時よく分かってくれている人がいるというのはありがたいです。でも、フラメンコのとらえ方について違う部分もあるので、話していく中でその差異を感じることもあるし、最終的には似ていると思うんですけれど、お互いあまり地雷を踏まないようにしているんですよ」と笑った。そして、二人の間にフラメンコがあるからこそ、強い結びつきが得られたとも語ってくれた。「入交さんも大塚さんも、ご主人が日本人のギタリストで、一生懸命フラメンコをやっている人と一緒になったのは、とてもいいと思うわ」と真顔でいった小林さんは、九九年日本帰国の前にファン・ホセさんと離婚している。「スペインでラファエラ・カラスコに習ったときに、そのコンパスのとり方を家で復習していたら、ファン・ホセに『家でフラメンコするな!』っていわれたわ。彼はやっぱりどこかで『外国人にはできない』って思っていた。自分たちの文化だから」そういう小林さんも、自分がスタジオで教える立場になり、レッスンが終わって家に帰ってきた時、息子のアントニオ君(座談会当時二十歳)がリビングで練習していると「家でフラメンコやめて」といってしまうこともあるのだと笑う。今では、都内タブラオで親子共演して踊ることもある。大塚さんは「年一回の公演の時を除いて、お互い単独行動」だという。けれどフラメンコ・メンバーを増やすべく、やはり九歳(当時)になる一人息子に少しずつフラメンコを教え始めていると、とても嬉しそうに話してくれた。大塚さんは「今、渡西する機会は増えていますけれど、鏡の前で練習したのをそのまま人前に持ってきちゃう。お客さんがいるようで、実はスタジオの延長上になっているのを感じるときがあります。私たちは鏡を見るところから始まっている、フラメンコを習うということが。でも、スペイン人がいつ鏡を見たかって考えると、それまでに過ごしてきたフラメンコ的な時間があまりに豊かで、長い。ファミリアに囲まれて、人を見ながら踊るということが当たり前で、そこで培われてきたものってすごく大きいと思うの」という。舞台は、最終的にその人の生き方が出る。そういうものだと入交さんはいう。「それに気が付くのがいつかなって。クラシックバレエはやはり完成度が求められるでしょう。でも、フラメンコはその人の個性とかね、『違うからいいのよ』というのがあって。今は、これはできて当たり前という、ちょっと技術で競うようなところがありますね」そして、入交さんは最後に「不器用ながらも時間をかけてフラメンコを習得していることが、結構気に入っている」といった。「私たちがフラメンコを始めたときは情報も少なくて、いろんなことを知るのにこう、探っていって、少しずつ、少しずつ時間をかけて分かることがあって。今もその途中ですけれど」大塚さんも、そんなに急くことはないと話す。「今って、欲しいものがあるとすぐつながるじゃない? だから、ちょっとでも時間がかかったり、遠回りすると不安になっちゃうのかなぁ。フラメンコも煮込み料理のように、じっくり愛情こめて煮込んであげれば、ご本人の人柄やら、人生やらが溶け出して美味しくなると思うんです。若い方たちが、早く上手にならなきゃいけないって、とても急いでいるように見えて、苦しそうに見えます」スペインと日本で、波乱の人生を送ってきた小林さんは迷いなくこう言葉を継いだ。「人と較べない。自分のやっていることを信じて、コツコツ登っていく。不器用で、遠回りをしたからこそ、その振りに他の人では出せない重みや深みが加わるはず」と。座談会が終わった後、フラメンコの知識も未熟でつたない進行だったにもかかわらず、皆さんは「とても楽しい時間だったわ。こういう機会を設けてくださって、ありがとう」といってくださった。それぞれが目指すフラメンコを、それぞれの環境の中で今でも真摯に追い求めている三人が、軽やかな足どりで中野の雑踏に消えていく後ろ姿は美しく、そして羨ましかった。 フラメンコの招聘公演を意欲的に手がけている株式会社イベリアの蒲谷照雄社長は「僕がフラメンコギターを始めた一九六〇年代に較べたら、今はネットからも様々な音楽が配信されていて、昔よりずっとフラメンコ音楽に接する機会があるはずなんだから、もっとフラメンコ人口が増えていても良いのにねぇ」といった。スペイン国立バレエ団をはじめヨーロッパの名門オーケストラを招聘していたコンサート・エージェンシー・ムジカが倒産したのは二〇〇七年六月のことである。負債総額は十二億円ともいわれており、九〇年代後半から著名なスペイン人アルティスタの来日公演を数多く手がけていただけに、このニュースは少なからず私にショックを与えた。〇八年のリーマンショック以降、日本全体を何となく不景気な雲が覆い、一一年に入ると都内のタブラオ二店が閉店した。本格的に景気が回復せず、客足が遠のいてきたところに三月十一日、未曾有の大震災が東日本を襲った。東北の被災地は甚大な被害を受け、そして東京でも、福島第一原子力発電所が引き起こした事故の影響によって外資系企業が社員を一時引き揚げたり、事業所を関西に移すなどしていたから、その余波もあったのだろう。クラシック音楽やバレエの集客力に較べれば、フラメンコはまだまだ少数派である。景気の波の中で小さなブームが生まれてはフラメンコを後押しし、その波が引けば観客もぐっと減る。変わらないのは、そのアルテに近付こうと向き合う人々の一途さである。 (7につづく)